13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。
14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
イエスの教え方は、当時のラビたちの教え方とは一線を画していた(マタ7:28~ 29 参照)。(1)ラビたち(律法学者たち)は、過去の著名なラビたちの教えを延々と引用し、ようやく最後に自分の考えをつけ加えていた。つまり、過去のラビたちの権威に依存していたということである。(2)イエスは、自らの権威に基づいて律法の解釈をされた。そして、一般民衆は両者の違いをはっきりと認識したのである。そのような権威をもって、イエスは山上の説教の結論部に入って行く。そこには、「4 種類の対比」が出てくる。この箇所は、その第1 番目のもので、タイトルをつけるなら、「2 つの道の対比」となる。
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです」。「広い門」、「広い道」とは、口伝律法による救いの方法、つまり、パリサイ人たちが教える救いの方法のことである。なぜこれを「広い門」と言うのか。その理由は、パリサイ人たちが、「ユダヤ人として生まれた者は、全員、天の御国に入れる」と教えていたからである。これ以上に広い門はない。しかし、それは滅びに至る門であり、道である。そして、そこから入って行く者が多いのである。ヨハネ3 章に登場するニコデモもまた、パリサイ人であった。つまり、彼もまたパリサイ派の神学を信じていたということである。イエスが、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われた時、彼は今までの確信とは正反対のことを聞いたので、仰天したのである。
次にイエスは、「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」と言われた。「狭い門」、「狭い道」とは、イエスが教える救いの方法、つまり、「信仰による義」のことである。そして、それを見いだす者はまれである。この状況は、日本での伝道にも当てはまる。信仰による救いは、あまりにも単純すぎて、多くの人たちがそれにつまずくのである。
どの時代でも、人の心は、多数の人の意見に影響されやすいものである。特に、他との和を大切にする日本文化の中では、自分だけが異なった意見を主張するのは、困難である。しかし、何を信じるかということは、私たちの永遠の運命を決める重要な問題である。私たちに関しては、勇気をもって狭い門をくぐり、狭い道を歩き続けたいと思う。多くの同胞がこの門をくぐり、イエス・キリストによる救いを得るように祈ろう。
きょうの祈り
天の父なる神さま。信仰による救いは、現代人には受け入れ難い教えかもしれません。しかし、不評であっても、それはいのちに至る狭い門であり、狭い道です。その狭い道を歩き続けることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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