21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
23 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、
24 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。
25 あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。
26 まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。
パリサイ人たちがモーセの律法に付加した内容を「口伝律法」と呼ぶ。これは後代に「ミシュナ法」として文書化されるが、イエスの時代にはまだ「言い伝え(口伝)」の段階にあった。イエスはその「口伝律法」の誤りを指摘し、モーセの律法の正しい解釈を与えようとした。マタイ5:21 ~48 では、「口伝律法」による義の解釈と、イエスによる義の解釈が対比されている。「…と言われていたのを、あなたがたは聞いています」という定型句が繰り返し出てくるが、これは、「口伝律法」による義の解釈を表している。モーセの律法をそのまま引用する場合は、「…と書いてある」となる(マタ4 章の荒野の誘惑で、イエスがどのように答えているか確認してみよう)。
メシアによる律法解釈の最初の例が、殺人に関する解釈である。「殺す」とは、あらかじめ考え、殺意を抱いて行動することである。口伝律法の解釈では、実際に人を殺すまでは殺人の罪に問われることはないとされていた。つまり、外面に出た罪だけが罪とされたのである。
「しかし、わたしはあなたがたに言います」というのもまた定型句である。これは、メシアによる律法の解釈を紹介する際に使う導入のことばである。イエスの教えは、次のように要約される。(1)神は、外側に現れた行為だけでなく、内面も問題にされる。(2)従って、兄弟に対して怒りやさげすみの心を持っただけで、心の内で殺人を犯したことになる。(3)神は、そのような人を燃えるゲヘナに投げ込まれる。ゲヘナとは、エルサレムの南側の谷に作られた、ごみ捨て場のことである。ごみを燃やす火が年中絶えなかったことから、永遠のさばきの象徴として、この言葉が用いられるようになった。(4)神が求める義とは、積極的に人間関係の和解を求めて歩むことにある。神にとって和解は、神殿で供え物をささげることを中断してでも、最優先されるべきことなのである。
神は、実質の伴わない儀式や礼拝を嫌われる。神は、人の心の中も、一つ一つの行為の背後にある動機も、すべてご存じである。神の御前に隠しおおせるものは何ひとつない。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(ヨハ4:24)。今、心にあるすべてのことを神に告白し、イエス・キリストにある平安をいただこうではないか。神に喜ばれる真の礼拝を捧げようではないか。
きょうの祈り
天の父なる神さま。どうか私を、表面的な現象だけではなく、内にある真実を見ることができる者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
年間聖書通読
エレミヤ書42~43、詩篇67 ~ 68
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