11 そのとき、【主】の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「【主】の山の上には備えがある」と言い伝えられている。
イサクを殺そうとするアブラハムに、新しい命令が与えられた。(1)「アブラハム。アブラハム」。神が彼の名を2 度呼んでいるのは、強調のためである。(2)「はい。ここにおります」。ヘブル語で「ヒネイニ」である。これもまた、強調の意味を含む言葉である。アブラハムは、全身全霊をこめて神に応答している。(3)「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった」。神は、アブラハムが神を恐れていることをすでに知っておられたが、イサク奉献という行為を通して、それが経験的知識となったのである。(4)アブラハムが神を恐れていることが分かった理由は、「あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」というものである。この行為によって、アブラハムはその信仰が真実なものであることを証明した。(5)それは、ヤコブの手紙2:21 ~23 の教えとも合致する。「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、そして、『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです」
次にアブラハムは、角をやぶにひっかけている1 頭の雄羊を発見した。この雄羊がイサクの身代わりであることを認識した彼は、それを取り、息子の代わりに全焼のいけにえとしてささげた。ラビ的伝承では、「アブラハムは、屠殺、血の注ぎかけなどすべての行為の過程で、『この行為が私の息子になされたと、神が認めてくださるように』と、何度も祈った」とされている。
アブラハムはその場所を、「アドナイ・イルエ」(新改訳)と呼んだ(新共同訳では、「ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)」。そこから、ある格言が生まれた。「【主】の山の上には備えがある」。【主】の山とは、モリヤの山、後にシオンの山と呼ばれる場所(今日の神殿の丘)である。メシアであるイエスの十字架上の死は、「ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)」)が成就した出来事である。私たちにとって、神の御心を行うことを妨害するものとは何か。不信仰に打ち勝つために、【主】の山には備えがあることを信じ、その山に上ろうではないか。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。「主の山に備えがある」を、私の人生のモットーとして歩みます。どうか私をお導きください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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レビ記14 ~ 15、箴言9
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