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創世記6:5 ~ 7

5 【 主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけにかたむくのをご覧になった。

6 それで【主】は、地上に人を造ったことをやみ、心を痛められた。

7 そして【主】は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

神の介入

裁きの必要性

 堕天使たちと人間の女たちとの雑婚により、地上に罪が拡大した。神は、この罪を放置することはできないと判断し、裁きをもたらされた。(1)「ご覧になった」とは、地上で起こっていることに対する神ご自身の評価である。神の目にはすべてが見えている。(2)罪には、2種類のものがある。「外側の罪」は行為に表れたもので、「内側の罪」は意図的、自覚的な罪である。神は、人の心の中までご覧になる。(3)「計る」(5節)とは、デザインすることである。人間は、神から与えられた賜物を、悪をデザインするために用いたのである。

神の悔やみ

 「それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」(6節)。神にも後悔することがあるのだろうか。(1)サムエル記第一15:11にはこうある。「『わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ』。それでサムエルは怒り、夜通し主に向かって叫んだ」。(2)ところが、同じ書の15:29には、「実に、イスラエルの栄光である方は、いつわることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない」とある。(3)この2つの聖句は、矛盾むじゅんではない。「悔やみ」とは、擬人ぎじん法による神の思いの描写である。神には悔いることがない。単に人の目に、神が悔いたように見えるだけである。(4)神の人に対する対応は、その人が従順か不従順かで異なる。罪人であっても、悔い改めて神に立ち返るなら、神はその人に対する態度を変更される。
 神の痛みについて黙想してみよう。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ」(7節)。(1)「消し去ろう」とは、取り除くことである。(2)「人、家畜、はうもの、鳥」は出てくるが、「魚」は出てこない。洪水は水による裁きなので、魚は生き延びるからである。(3)神は、被造の世界を見て、残念に思われたのである。なんと悲しいことばではないか。これは、親が子どもの罪を見てなげくようなものである。ノアの時代でも、今の時代でも、神は私たちが罪を犯すとき、心を痛めておられる。今年一年を振り返り、主の恵みに感謝すると同時に、思いつく罪を告白し、神の赦しをいただこうではないか。キリストにあって清くしていただき、新しい年を迎えようではないか。

きょうの祈り

天の父なる神さま。キリストにあって清くしていただいたことを感謝します。今年一年の恵みを心から感謝し、御名をたたえます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

歴代誌 第一16~17、詩篇135~136