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8 神である【主】は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
9 神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。
10 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。
12 その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。
13 第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。
14 第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。
「神である主は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた」(8節)。(1)「エデン」というのは地名である。メソポタミア地方のどこかに、エデンと呼ばれる場所があったのである。(2)神は、そのエデンと呼ばれる場所の東側に一つの園を設けた。「設ける」という動詞は、「植える」という意味である。それが「エデンの園」と呼ばれた。(3)「エデン」は地名であり、かつ園の名前でもあった。その語源は、水で潤っているという意味である。事実、エデンから一つの川が流れ出ていた。その川は園を潤し、それから4つの川に枝分かれしていた。(4)最初の人アダムは、エデンの園以外の場所(恐らくエデンの西側)で形造られ、それから園に置かれたのである。
(1)神がアダムのために用意されたエデンの園は、完璧なものであった。そこには、外見が美しく、美味しい実を付ける木だけが生えていた。(2)園の中央には、「いのちの木」が生えていた。これは、文字どおり、それを取って食べると肉体的に死ななくなる木である(創3:22、3:24、箴3:18、11:30、13:12、15:4など参照)。この木は、新約聖書では黙示録に登場する(黙2:7、22:2、14、19)。(3)さらに、園の中央には、「善悪の知識の木」も生えていた。キリスト教の伝統では、この木はりんごと言われているが、聖書にはそのような記述はない。「善悪の知識」とは、知識の総体であり、体験的知識でもある。つまり、この木から食べると「知識の総体」を得るのであるが、その行為は、人が自分にとって何が良いかを決定するということ、つまり、神のように振る舞うことを意味している。そうなると、人は知識の総体を得るが、実際の行動においては、その知識によって生きることができなくなる。ここに、神を離れた人間のジレンマがある。人は為すべきことを知っていながら、それを為すことができないのである。神の助けがなければ、私たちは無力である。
罪の本質とは、自分が神であるかのように振る舞うことである。自分にとって何が最善かは自分で判断するという態度が、まさにそれである。神を排除した結果、人は死(神との断絶)を経験するようになった。しかし神は、私たちを見捨ててはおられない。イエス・キリストを通して神と和解した私たちは、「いのちの木」に向かっての歩みを開始したのである(黙22:14)。
きょうの祈り
天地創造の神よ。神を神として認めるなら、私は目的のない人生から解放されます。あなたが用意してくださった人生を生き切ることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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ダニエル書1~2、ペテロの手紙 第一3
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