20 食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人の場合は、悪いのです。
21 肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです。
22 あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。
23 しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。
2義的事項に関する勧告が続いています。前回は、強い人は、弱い人のために自分に与えられている自由を「愛の律法」によって制限すべきだと教えられました。今回はその続きです。「食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人の場合は、悪いのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、そのほか兄弟のつまずきになることをしないのは良いことなのです」(20〜21節)。(1)パウロが同じことを繰り返し書いているのは、このテーマがローマ教会の信者たちにとって極めて重要なものだという判断があったからです。これは、現代の私たちにとっても重要なテーマです。2義的なことについて裁き合わないということが教会の中に定着したなら、その教会の雰囲気は激変することでしょう。(2)教会史の中では、2義的なことに関する意見の違いによって、多くの教派の対立が生じました。ある意味、今もそのような状況が続いています。エルサレムの聖墳墓教会や、ベツレヘムの生誕教会では、そこを分割所有する複数の教派が、感情的なもつれから対立しています。それが一般のメディアに面白おかしく取り上げられることがあります。悲しいことです。
先に進む前に、教派の対立のもう一つの例として、聖餐式を取り上げます。聖餐式には4つの神学的理解があります。(1)化体説。これはカトリック教会の立場で、「司祭の聖別の祈りによって、パンとぶどう酒は、実際にキリストの体と血に変化する」と教えます。(2)実体共存説。ルター派と聖公会がこの説に立ちます。「パンとぶどう酒の実体は変化しない。しかし、キリストの体と血の実体は、パンとぶどう酒の中に共在する」という教えです(化体説と同じ)。(3)霊的存在説。ジョン・カルバンの立場です。「キリストの体と血は、パンとぶどう酒の中に物理的にではなく、霊的に存在している」。(4)記念説。「聖餐式は、イエスを記念するために行うものである」。ツウィングリ(スイスの宗教改革者)がこの説を提唱しました。これが最も聖書的な説です。
聖餐式の目的は、キリストを記念することと、信徒の一致にあります。神学的理解が異なる人とは聖餐式をともにすることができないというなら、本来の目的を破壊していることになります。これもまた、悲しいことです。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。1義的なことに関しては妥協せず、2義的なことに関しては寛容な心を示すことができますように、私を助けてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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