15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。
16 ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい。
17 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。
18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。
19 そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。
前回の箇所では、強い人が弱い人のことを配慮すべきだと教えられていました。今回はその続きで、「愛の律法」による自由の制限がテーマになります。「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください」(15節)。(1)クリスチャンには自由が与えられています。しかし、自由(権利)の行使には、ある制限があります。それは、愛によって行動するという制限です。(2)自由を行使することによって、弱い兄弟が心を痛める場合があります。弱い人は強い人の信仰につまずきます。さらに、良心に反して不本意な行為に走ることになります。(3)強い人が考えるべきことは、キリストは弱い人のためにも死んでくださった、ということです(1コリ8:11〜12参照)。
「ですから、あなたがたが良いとしている事がらによって、そしられないようにしなさい」(16節)。(1)愛によって自由を制限しないなら、信者の間に、あなたの悪評が広がります。それは、あなたの奉仕の妨げとなります。(2)また、信者同志の間に争いがあるなら、未信者の間にクリスチャンの悪評が広がります。信者同志の対立が、福音宣教の妨げとなるのです。
「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです」(17節)。(1)「神の国」という言葉は、新約聖書に65回、パウロ書簡に8回出て来ます。8回というのは、驚くほどの少なさです。その理由は、2つ考えられます。① ローマ帝国内を巡回したパウロは、反逆罪に問われないために、この言葉を注意深く使用したと思われます。② さらに、異邦人信者は旧約聖書の背景を知らないので、パウロはこの言葉の使用を最小限にとどめたと思われます。「神の国」という概念は、旧約聖書から出てくるものです。(2)この文脈での「神の国」とは、「神の支配」か「メシア的王国」のことでしょう。つまりパウロは、愛のゆえに自由を制限しても、クリスチャンにはそれ以上の祝福があると論じているのです。その祝福とは、「義と平和と聖霊による喜び」のことです(ここから先は、次回学びます)。
キリストにあって、自分に与えられた自由を制限することを学びましょう。そこから出てくる喜びを追い求めましょう。
きょうの祈り
天の父なる神さま。キリストにあって、「義と平和と聖霊による喜び」を追い求めます。どうか私を愛の人に育ててください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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