7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
10 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
11 それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。
12 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。
13 では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。
前回は、律法の目的(1)は「罪を示すことにある」と書きました(1節)。今回は、律法の目的(2)について学びます(8〜 9節)。律法の第二の目的は、「私」にもっと罪を犯させることにあります。
「しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです」(8節)。(1)この聖句は、非常に重要です。「機会」という言葉が、罪と律法の関係をよく説明しています。「機会」と訳されている言葉は、ギリシア語で「アフォルメイ」です。これは軍事用語で、敵地に築く作戦基地(base of operation)、橋頭堡(bridgehead)、上陸拠点(beachhead)などの意味があります。(2)パウロは聖化の過程を霊的戦いと捉えています。そして「律法」は、「罪」という敵が人間の性質に侵入する時の拠点であると考えているのです。(3)このことをもう少し詳細に解説します。「むさぼってはならない」という戒めが与えられた。すると、罪という敵は、その戒めを橋頭堡にして、私の内に侵入した。その結果、私はあらゆるむさぼりをするようになった。律法が命じることと正反対のことをしたくなるのが、罪の性質である、ということです。(4)「律法がなければ、罪は死んだものです」とあります。罪は存在するのですが、破るものがなければ、罪は罪として認識されないということです。
「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました」(9節)。(1)「律法なしに生きていた」とは、パウロの生涯のいつ時点のことでしょうか。ある人は、バール・ミツバ(成人式)の前のことだと言いますが、そうではなくて、信者になりたての頃でしょう。(2)パウロの回心体験は、使徒9章に記録されています。彼は、救われて3日後に、義認は恵みによることを理解しました(使9:9)。それが、「律法とはかかわりなく、生かされる」状態のことです。(3)しかし、「戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました」とあります。これは、律法を行うことによって聖化は可能だと考えた結果起こったことです。そう考えた途端に、罪が侵入し、「私」は死にました。
律法主義はパウロの霊性を殺しました。私たちも、律法(行い)による聖化を求めるなら、同じ悲劇を経験します。聖化は、信仰により、恵みによることを、きょうも思い出しましょう。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。義認も聖化も、あなたがそれをなしてくださらなければ、無力な私には不可能なことです。きょうも恵みによって私を生かしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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歴代誌 第二1~2、ヨハネの黙示録9
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