15 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。
16 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。
17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、
18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
19 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。
20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。
22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。
23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
パウロは、「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか」という問いに、例話を使って答えています。
まず19節を見てみましょう。「あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています」。(1)「肉の弱さ」とは、霊的理解力が欠如していることを意味します。本来なら、霊的話題だけを取り上げて説明するのが最善なのですが、ローマのクリスチャンたちがまだ霊的に成熟していないので、例話で説明するというのです。例話は分かりやすいものですが、霊的真理を直接取り上げることに比べると、常に劣ります。(2)「人間的な言い方をする」とは、例話を用いるということです。例話は、当然、聞き手が熟知しているものでなければなりません。(3)パウロが用いている例話は、「奴隷と主人の関係」です。これは今の私たちには分かりにくいものですが、ローマ時代の人たちには常識でした。ちなみに、当時コリントの町の人口の3 分の1が奴隷であったと言われています。
「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです」(16節)。(1)「あなたがたはこのことを知らないのですか」とは、当然知っているはずだ、という意味です。(2)人間には、完全な自立はあり得えません。未信者は、クリスチャンになると不自由になると誤解しています。しかし、人間は誰か(何か)に仕える必要があります(マタ6:24 参照)。
私たちが仕える可能性のある主人は、2人います。① 罪という主人の奴隷となるなら、死に至ります。これは不従順の道です。「死」とは、神からの分離(霊的死)のことです。② キリストという主人の奴隷になるなら、義に至ります。これは従順の道です。「義に至る」とは、永遠のいのちに至るという意味です。クリスチャンは、罪からキリストへと主人を変えた人です。主人を変えると、劇的な変化が起こります。きょうも、自分の主人はキリストであることを認識し、従順の道を歩もうではありませんか。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。私は主人替えをした奴隷です。私はキリストに仕える自由意思に基づく奴隷です。どうか私を大いに用いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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