1 では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。
2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。
3 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。
4 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。
5 しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。
6 絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。
7 でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。
8 「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか─私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。─もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。
パウロは、2:17 〜 3:8で、ユダヤ人の罪について論じています。すでにパウロは、次のような結論を導き出しています。(1)ユダヤ人と異邦人は、ともに神の裁きを受けるという点で、同じ所に立っている。(2)ユダヤ人も異邦人も、救いの方法は同じである。(3)それでも、ユダヤ人には特権が与えられている。そしてきょうの箇所では、パウロは読者の質問を3つ想定して、それに答えています。きょうは3 番目の質問を取り上げます。
パウロの質問は、罪が神の計画を前進させるなら、神はどうしてその罪を裁くことができるのか、というものです。「しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか」(5節)。(1)このような質問をする人は、神に対する反感を抱いている人です。彼らは罪の口実を探しているだけなのです。(2)人が罪を犯しても、神はそれさえも益に変えられますが、だからと言って、罪を犯した人に責任がなくなるわけではありません。
パウロはこう回答しています。「絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう」(6節)。(1)「絶対にそんなことはありません」(メイ・ゲノイテ)とは、最も強い否定語です。つまり、罪を犯してもいいという言い訳は、どこにも存在しないということです。(2)どうやら、パウロの教えに関する噂が広がっていたようです。もちろんそれは、誤解に基づく噂です。「『善を現すために、悪をしようではないか』と言ってはいけないのでしょうか─私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。─もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです」(8節)。(3)当然のことながら、「神の善が行われるために、悪をしようではないか」などと論じる者は、罪に定められるのです。
義認の祝福を受ける前に必要なのは、認罪(罪の意識)です。「日本のリバイバル」という言葉がよく使われますが、正確には「日本の霊的覚醒」です。日本にはまだ本格的な霊的覚醒が起こったことはありませんので、「リバイバル」という言葉はなじみません。日本人に認罪と霊的覚醒が与えられるように、祈ろうではありませんか。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。どうかこの国に認罪と、霊的覚醒とを与えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
年間聖書通読
伝道者の書1~2、詩篇111 ~ 112
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