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出エジプト記3:1 ~ 3

1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。

2 すると【主】の使いが彼に、現れた。しばの中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。

3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」

神の栄光

羊飼いモーセ

「モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た」。(1)「イテロ」は、レウエル(神の友という意味)という名で登場していた(出2:18)。イテロはタイトルであり、レウエルは固有名詞である。(2)ホレブは山脈であり、シナイ山はその山脈の中の1 つの山である(ホレブとシナイ山を同じ山と考えても、差し支えはない)。恐らくそこには、豊かな緑があったのであろう。それでモーセは、そこまで羊を追って行ったのである。ちなみに、「神の山」という修飾語は、モーセが後から振り返って書いている言葉である。そこは、彼が燃える柴を見た場所であり、出エジプト後にシナイ契約が締結ていけつされた場所でもある。

燃える柴

シナイ半島は乾燥地帯であるが、家畜を飼う程度の草木は育つ。散見される背の低い木(柴)は、羊やヤギのえさになった。この地帯では、柴が自然発火するのは決して珍しい現象ではなかった。しかし、モーセが見たのは、普通の光景ではなかった。柴が燃えているのに、焼け尽きなかったのだ。燃え尽きない柴は、エジプトで奴隷になっているイスラエルの民を象徴している。彼らは苦しめられたが、滅びることはなかった(今に至るまでそうである)。私たちクリスチャンも、燃える柴の性質を与えられている。教会は、迫害の中で成長するということを何度も実証して来た。
炎は、神の栄光(シャカイナグローリー)の現れである。目に見えない神の臨在が、雲、けむり、光、火、などの目に見える現象となって現れたものが、シャカイナグローリーである。その炎の中から、神はモーセに語りかけた。「すると【主】の使いが彼に、現れた」とある。旧約聖書で「【主】(ヤハウェ)の使い」という言葉が出て来ると、それは例外なしに「第2 位格の神」、つまり、受肉前のメシア(キリスト)を指す。同じ方が、4 節では、「【主】(ヤハウェ)」、また「神(エロヒム)」と呼ばれている。
モーセの好奇心は、80 歳になってもおとろえていなかった。彼は、「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう」と言いながら、その柴に近づいた。異邦人クリスチャンにとっては、シャカイナグローリーという概念がいねんは「盲点もうてん」である。礼拝の場に、そして生活の場に、神の臨在(シャカイナグローリー)が豊かに現れるように祈ろうではないか。神は私たちとともにおられる。

きょうの祈り

天の父なる神さま。きょうも私とともにいてくださることを感謝します。あなたのご栄光を現してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

出エジブト記 11~12、 ヨハネの福音書 5