38 そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。
39 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
40 言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」
41 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。
42 「 彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。
43 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」
44 イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。
イエスといっしょに、二人の強盗が、一人は右に、もう一人は左に、十字架につけられた。この二人は、バラバが受けたような幸運にあずかれなかったのである。イエスが二人の強盗とともに十字架につけられたのは、イザヤ53:12 の成就である。「…彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである」
二人の強盗はイエスをあざけった。しかし、そのうちの一人は、後に悔い改め、イエスに対する信頼を告白した(ルカ23 章参照)。クレネ人シモンと同じように、彼もまた十字架のイエスの祈りを聞き、その姿を見ているうちに、この方こそメシアであるに違いないと考えたのである。いかなる罪人であっても、死の直前まで、悔い改めの機会は提供されている。なんという神の恵みであろうか。
イエスをあざけったのは、二人の強盗だけではない。(1)道行く人々がイエスをあざけった。十字架刑は、人通りの多い所で執行されたので、野次馬が集まってきたのである。(2)祭司長や律法学者、それに長老たちも、イエスをあざけった。つまり、サドカイ人もパリサイ人も、ともに同じ罪を犯したということである。(3)さらに、ローマ兵たちもイエスをあざ笑った(ルカ23:36)。
以上の人々の嘲りの内容を調べてみると、2 つの共通した要因があることに気づく。(1)彼らは、イエスのメシア宣言をあざ笑っている。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い」(40 節)。(2)もしメシアなら、それを証明するために十字架から降りて来いと呼びかけている。この2 つの共通した要因の背後には、サタンの陰謀がある。サタンは、イエスが過越の祭りの間に十字架で死ぬことを恐れ、なんとかしてそれを阻止しようとしたのである。もしイエスが十字架から降りていたなら、人類の罪を贖うというメシアの使命は達成されなかったことになる。しかし、イエスは最後まで(十字架の死に至るまで)父なる神の御心に忠実であった。十字架から降りようと思えば降りることができたのに、そうはされなかった。キリストの打たれた傷によって、私たちは癒やされた。十字架こそ、天の父が私たちに与えてくださった罪と死に対する回答である。イエス・キリストを救い主として信じる以外に、救いの道はない。イエス・キリストの福音を信じた者は、幸いである。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。私もまた、イエスをあざけった者のひとりです。どうか、私の罪をお赦しください。私には、イエスの十字架以外に誇りとするものはありません。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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