1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。
4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。
5 また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。
この箇所で、弟子たちはイエスにこう質問している。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか」。この質問の背景にある弟子たちの思いを、文脈を意識しながら分析してみよう。(1)12 使徒の中で、特別な特権に与る者とそうでない者とが出てきた。つまり、彼らの中にお互いを比較する思いが生まれてきたということである。(2)イエスの変貌を目撃したのは、ペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人であった。宮の納入金に関して特別な扱いを受けたのは、ペテロだけだった。これらの出来事があったので、だれが一番偉いのかという議論になったのであろう。(3)もう一つ忘れてならないのは、この時点では、弟子たちはメシア的王国がすぐにでも実現すると思い込んでいたことである。そのため、天の御国での地位が気になったのである。
「悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません」。これは、子どもを例に取った視聴覚教育である。「子どもたちのようにならない限り」とは、どういう意味なのか。(1)子どもは、自分の弱さを知っている。そのように、自分が無力で価値のない者であることを知っている人が、天の御国に入るようになる。(2)子どもは、自分の無力を知っているがゆえに、父親に全幅の信頼を置いている。そのように、天の御国に入るのは、自分の徳や能力によるのではなく、父なる神に対する信頼しかないと認めている人である。(3)父親に信頼している家庭では、家族同士の間で、だれが偉いかという比較をすることはない。そのように、他者との比較や優越感を投げ捨てる人が、天の御国に入るようになる。(4)天の御国で一番偉い人とは、自分を低くし、他者に仕える者である。(5)父なる神の恵みを味わった人は、無価値に見える子どもも受け入れるようになる。無力な子どものひとりを受け入れることは、イエス自身を受け入れることでもある。
イエスは十字架への道を歩み出していたが、弟子たちにはそれが分かっていなかった。イエスと弟子たちの間には、深い溝があった。私たちも、自分の価値観とイエスの価値観の間にずれがないかどうか、吟味してみよう。祝福されているなら、謙遜になることを学ぼう。試練にあっているなら、父なる神に受け入れられていることと、プライドが砕かれたことを喜びとしようではないか。私たちの国籍は、天にある。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。私に幼子のような信仰を与えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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雅歌7~8、ヤコブの手紙4
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