22 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。「人の子は、いまに人々の手に渡されます。
23 そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると、彼らは非常に悲しんだ。
ガリラヤでの活動期間が、終わりに近づいていた。この時点でのイエスの最大の関心事は、十字架の死が来る前に弟子たちを訓練し、教会時代の奉仕に備えさせることであった。
(1)この箇所でイエスは、2 度目の受難の予告をされた。最初の予告は、マタイ16:21 ~28 に出てきた。再確認してみよう。そこでは、イエスの受難の予告に対して、ペテロが激しく抗議した。「するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。『主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません』」。イエスの応答は、「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」というものであった。(2)2 度目の受難の予告も、弟子たちには理解されなかった。「彼らは非常に悲しんだ」とある。彼らには、イエスの言っていることが理解できなかったのである。彼らは、何を質問していいのかも分からず、質問することすら恐れた。それが、深い悲しみの原因であった。(3)イエスが十字架で死んだ時、弟子たちは驚き、落胆した。それは、メシアの受難の預言を理解していなかったからである。彼らがイエスの十字架の意味を理解するのは、ペンテコステの日に聖霊が降臨して以降のことである。
この短い箇所から、私たちは何を学べばよいのか。(1)福音の中心は、メシアの十字架の死である。パウロは、「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです」(1 コリ2:2)と語っている。私たちの信仰の土台は、メシアの十字架の死である。(2)弟子たちは、ペンテコステの日に聖霊を受けて初めて霊の目が開かれた。霊の目が開かれるのは、すべて聖霊の働きによる。聖霊の働きがなくては、信仰を持つことは不可能である。まだイエスを信じていない人たちのために祈ろう。(3)私たちの人生には、予期せぬ出来事が起こる。それによって私たちは、悲しみ、当惑し、恐れる。私たちの理解力には限界があるので、「神さま、どうして」と問いたくなることもある。しかし、神はいっさいのことを支配しておられる。
信仰の力によって、試練を乗り越えることを学ぼう。神は、ご自身の計画を常に実行しておられる。それは、私たちにとっての最善の計画である。今は分からなくても、後になれば分かる。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。あなたの計画が私にとって最善であることを信じます。どうか私に、霊的な洞察力を与えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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雅歌3~4、ヤコブの手紙2
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