24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。
28 まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」
次にイエスは、弟子としての生き方について教えられた。日本流に言うと、これは、「弟子道」に関する教えである。ここで、いくつかのことを確認しておこう。(1)救いは、信仰により、恵みによって与えられる。これは、永遠に変わることのない真理である。(2)ここでイエスが語っておられるのは、救われる方法ではなく、弟子として生きる道である。救いは無代価で与えられるが、イエスの弟子になるためには犠牲が伴う。(3)「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」とある。「自分の十字架を負う」とは、イエスの苦難と同一化する、苦難に参加するということである。つまり、この世から拒否されることを甘受し、死の宣告を受けた者としての立場に立つことである。イエスの弟子になることは、自己中心的な生活を送ることの対極に位置する。
自分に死んでイエスに従う者には、真のいのちが与えられる。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです」。イエスに従う人には、霊的安全と、霊的豊かさが与えられる。それが弟子道の祝福である。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」というイエスのことばの意味を黙想してみよう。
イエスは、弟子たちに2 つの約束をされた。(1)受難のしもべイエスは、やがて栄光の王、審判者として地上に再臨され、千年王国を確立される。その時、イエスの弟子として忠実に歩んだ者には、おのおのその行いに応じて報いが与えられる。その時こそ、地上の価値観が神の国の価値観に取って代わられる時である。(2)弟子たちの中には、その生存中に、イエスが神の国の栄光をもって現れるのを見る人々がいるとの約束がなされた。この約束は、マタイ17 章の「変貌山の出来事」によって成就する。イエスの栄光を見るという特権に与るのは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3 人である。
信仰によって救いに入れられるのは、大変幸いなことであるが、そこで満足していてはいけない。主イエスの弟子として、日々みことばに親しみ、神の計画の全貌を知る者とならせていただこう。私たちが主イエスの栄光を拝する時が、刻々と近づいている。忠実な弟子に用意されている報いを楽しみに、自分に与えられている責務を全うしようではないか。
きょうの祈り
天の父なる神さま。どうか私を、主イエスの忠実な弟子としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
年間聖書通読
ルツ記1~2、ヘブル人への手紙12
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