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マタイの福音書14:22 ~ 23

22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。

23 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。

山に退くイエス

群衆から身を引くイエス

ヨハネの福音書の並行記事は、詳細な情報を提供してくれている。それを参考にしながら、この箇所を学んでみよう。
「人々は、イエスのなさったしるしを見て、『まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ』と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退しりぞかれた」(ヨハ6:14 ~15)。(1)パンを食べて満足した人々が、イエスこそ「世に来られるはずの預言者」(申18:15)だと考え、イエスを「ガリラヤの王」にしようとして押し寄せて来た。パンを食べたのはガリラヤ人たちであった。しかし、イエスがガリラヤの王になるのは、あり得ないことであった。(2)それを見て、イエスは身を引き、祈るためにひとりで山に退かれた。今後の導きを求めて、父なる神と語らうためであった。

群衆の提案を拒否した理由

群衆の考えと、イエスの思いとの間には、深いみぞがあった。イエスが群衆の提案を拒否した理由が、3 つあった。(1)ユダヤ人の指導者たちは、すでにイエスのメシア性を拒否していた。それが「赦されない罪」と呼ばれるものである。ガリラヤの群衆がいかにイエスを王にしようとしても、すでに手遅れになっていた。(2)群衆は、イエスを「ガリラヤの王」に祭り上げようとした。しかし、旧約聖書の預言では、メシアはエルサレムで全イスラエルの王となるのである(詩2 篇参照)。聖書に啓示された神の計画に沿って願い求めなければ、何ごともかなえられるものではない。(3)イエスを王にしようとした動機が間違っていた。群衆は、霊的満足よりも、物質的満たしを求めたのである。神は常に行動の背後にある動機を見ておられる。
イエスは群衆との間に距離を置き、弟子たちとも離れて、ひとりで父なる神に近づかれた。イエスのこの姿から教訓を学ぼうではないか。この世の常識や価値観の影響を受けない人はいない。しかし、大衆がよしとすることが必ずしも正しいわけではない。私たちに必要なのは、神の御心をキャッチする霊的感受性である。日々のデボーションを通して父なる神との対話を継続しよう。神は、私たちを待っておられる。「あなたがたはこの世にならってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何がいことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ロマ12:2、新共同訳)。

きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。どうか私に霊的識別力をお与えください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

ヨブ記19〜21、ヘブル人への手紙1