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マタイの福音書13:47 ~ 52

47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。

48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。

49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、

50 火の燃えるに投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

51 あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい」とイエスに言った。

52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」

地引き網と天の御国の弟子のたとえ

地引き網のたとえ

地引き網のたとえは、毒麦のたとえとよく似ている。(1)しばらくの間は、神の民とそうでない者たちが共存する時が続く。(2)しかし、この世の終わり(「奥義としての王国」の終わり)には、御使いによる厳しい選別が行われる。つまり、奥義としての王国は、異邦人の裁きで終わるということである。ちなみに、「海」は異邦人世界を象徴する言葉である。この裁きは、マタイ25:31 ~46 に出てくる「羊と山羊の裁き」と同じものである。(3)その結果、神の民でない者たちは裁かれ、「火の燃える炉」に投げ込まれる。つまり、メシア的王国(千年王国)から除外されるということである。それに対して、神の民はメシア的王国に入ることを許可される。(4)この裁きが起こるのは、主イエスが御国の王として再臨される時である。
今がどういう時代であるか、認識しようではないか。「奥義としての王国」が終わる時が近づいている。それは、主イエスが地上に再臨される時でもある。主イエスの御前に立つことは、義人にとっては祝福であるが、罪人にとっては恐ろしいことである。日々、主の御前に立つことを意識しながら生きている人は、幸いである。私たちの人生のゴールは、そこにある。

天の御国の弟子のたとえ

このたとえが、「奥義としての王国」を解説する一連のたとえ話のめくくりとなっている。ここでは、3 つのことが教えられている。(1)「奥義としての王国」は、新しい側面を多くそなえた御国である。事実、この御国は新約時代になって初めて啓示されたものである。(2)と同時に、この新しい御国は、旧約聖書にすでに啓示されていた御国の特徴もいくつか兼ね備えている。たとえば、信仰によって救われるという真理は、どの時代にも適用されるものである。(3)御国の弟子となった者は、御国についての豊かな知識が与えられ、新しい真理でも、古くからある真理でも、自由自在に取り出すことができるようになる。
私たちは、天の御国の真理を自由自在に取り出すことのできる天の御国の弟子になっているだろうか。天の御国の真理は、熱心なみことばの学びによって理解されるものである。みことばへのかわきが与えられるように、祈ろうではないか。聖書の理解が進むと、聖書を学ぶことがますます楽しくなる。日々のデボーションの時間を一日のゴールデンタイムと位置づけ、日々の霊的なかてを神からいただこうではないか。

きょうの祈り

天の父よ。あなたからの啓示のことばを、軽視していたことを赦してください。天の御国の弟子とならせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

ヨブ記4〜6、詩篇101 ~ 102