24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
26 麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。
27 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
28 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」
このたとえ話も「奥義としての王国」の特徴を教えるためのものである。再確認になるが、①「奥義」とは、新約時代になって初めて明らかにされた真理を指す。②また、「奥義としての王国」は、旧約聖書には預言されていなかった概念であることを覚えよう。ユダヤ人たちがイエスを拒否して以降、「奥義としての王国」の時代が始まった。それは、主イエスの再臨の時まで続く(教会時代がほぼそれに当てはまる)。今の時代も、「奥義としての王国」は続いている。
毒麦のたとえは、3 つのことを教えている。(1)「奥義としての王国」では、本物と並行して偽の種が蒔かれる。偽の種とは、「毒麦」のことである。(2)「奥義としての王国」では、本物と偽物が共存し、並行して育つ。しかも、両者の見分けがつきにくい。それゆえ、早まった判断を下してはならない。(3)しかし、「奥義としての王国」の最終段階では、本物と偽物が明確に区別される。それは、メシア的王国が到来するための準備となる。ここでは、その時のことを「収穫の時期」と呼んでいる。
私たちは、神がおられるのに、なぜこの世に悪がはびこるのか不思議に感じることがある。また、教会の中になぜ問題があるのかと疑問に思うこともある。その答えは、「毒麦のたとえ」の中にある。「奥義としての王国」では、麦と毒麦とが並行して育つ。地上の教会には、本物の信者とそうでない者がともに集っている。しかし、最終的には毒麦は取り去られる。イエスはここで、「だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう」と語っておられる。このことばは、バプテスマのヨハネが語ったものと同じである。「(この方は)手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます」(マタ3:12)
悪人が栄えているのを見て、うらやましく思ってはならない。むしろ、神を恐れつつ歩むことを志すべきである。再臨のキリストの前に立ったとき、本物の信者と偽の信者が区別される。神の御前を誠実に歩んでいるなら、豊かな収穫を得る時が必ずやって来る。
きょうの祈り
天の父よ。麦と毒麦が並行して育っている時代です。こういう時代にあっても、あなただけを恐れる知恵を私に与えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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