1 さばいてはいけません。さばかれないためです。
2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
5 偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。
6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。
聖書解釈で最も重要なことは、「文脈」である。この箇所も「山上の説教」という文脈の中で解釈する必要がある。山上の説教の本質は、口伝律法(ミシュナ法)による「律法の義」の解釈と、メシアによる「律法の義」の解釈の対比である。「他の人をさばくな」という命令も、そういう視点から解釈する必要がある。
(1)「他の人をさばくな」とは、ものごとの批評や善悪の判断をしてはいけないという意味ではない。(2)正しいさばきは、「神の基準」によってなされるものである。その例として、マタイ18 章を上げることができる。そこでは、「教会内での罪の処理」がテーマになっている。イエスは、「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです」(マタ18:15)と語っておられる。教会が健全に成長するためには、善悪に関する正しい判断が必要なのである。(3)イエスが禁止しておられるのは、人間が作った基準で人をさばくことである。「人間が作った基準」とは、口伝律法のことで、それによって人をさばいていたのがパリサイ人たちである。(4)パリサイ人たちは、偽善者である。自分の大きな欠点(目の中の梁)には目を閉ざしながら、他人の小さな欠点(目の中のちり)について、忠告しているからである。「自分の目から梁を取りのける」とは、神の基準に照らして自らを判断し、日々悔い改めの生活を送ることである。
「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。…」。「聖なるもの」とは神に属するもの、「真珠」とは神の国の福音のことである。「それを踏みにじる豚」、「向き直って襲いかかって来る犬」は、福音のメッセージをあざける者たち、神の国に敵対する者たちである。この聖句は、福音のメッセージを伝えるためには知恵が必要であることを教えている。いつ、誰に、どのような形で福音を分かち合うかに関して、知恵ある判断ができるように、祈り求めよう。
この箇所を、自分に適用してみよう。(1)自分の欠点に目を閉ざしたままで、他人に忠告を与えようとしていなかっただろうか。(2)教会の中で、神の基準よりも人間の基準を優先させていることはなかっただろうか。(3)罪を犯している兄弟に対して、聖書的に対処してきただろうか。
きょうの祈り
天の父なる神さま。どうか私が、人間的な基準で人をさばくことのないように、私を助けてください。日々、聖書の基準によって歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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