27 『 姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。
31 また『だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ』と言われています。
32 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。
この箇所でも、「口伝律法(言い伝え)」に基づく律法の義の解釈と、イエスによる律法の義の解釈が対比されている。一般論としては、口伝律法は外側の行為だけを問題にするが、イエスは、内面の汚れを重視される。その理由は、行為に現れる前に、心の中で律法が破られるからである。神は霊であり、人の心の中の状態に関心を持っておられる。
内面重視の原則は、姦淫についても当てはまる。(1)モーセの律法が命じる「姦淫してはならない」という戒めは、行為だけでなく、心の清さにかかわるものである。それゆえ、情欲を抱いて異性を見ただけで、心の中で姦淫を犯したことになるのだ。(2)「右の目」、「右の手」という言葉が出て来る。目は誘惑が心に侵入して来る通り道であり、手は罪を実行に移す道具である。(3)それらを取り除けという命令は、誇張法である。実際にそうせよというのではなく、つまずきの原因は、断固取り除くべきであるという意味である。これは、罪との決別を激しく迫る言葉である。
「妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ」という命令は、申命記24:1 から出たものである。(1)この命令の本来の意図は、妻の権利を守ることにあった。離婚してからも、夫としての権利を主張する横暴な男性たちがいたので、妻を保護する必要があった。(2)後の時代になると、この命令が乱用されるようになった。つまり、離婚状を与えさえすれば、合法的に離婚できると考えられるようになったのである。(3)イエス時代のユダヤ教には、ヒレル派とシャマイ派の二つの代表的な学派があった。ヒレル派は、律法解釈が緩やかな学派で、離婚に関しては、「料理が下手というだけで離婚原因となる」と教えていた。(4)以上のような背景の中で、イエスは離婚に関する「律法の義」がどのようなものであるかを明示された。「不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させることになる」(当時、離婚した女性が生きる道は、他の男性に身を寄せることしかなかったので、このような表現になっている)。
離婚の可能性を軽々しく口にしてはならない。神が結婚関係を重視しておられることを覚えようではないか。また、律法の文字を守ることと、その精神を守ることの違いを見抜き、自らの信仰生活を省みようではないか。クリスチャンであるなら、聖霊が内住しておられる。聖霊の語りかけと導きに自分を委ねている人は、幸いである。
きょうの祈り
天の父なる神さま。律法の文字ではなく、その精神を守ることができますように、私を助けてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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エレミヤ書44~45、コリント人への手紙 第二8
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