17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
19 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
20 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。
イエスは、パリサイ人(律法学者)たちが行っていた自分勝手な律法解釈を矯正するために、山上の垂訓をお語りになった。この時点では、モーセの律法はまだ有効に機能していた。律法が廃棄され、恵みの時代が到来するのは、イエスが十字架の死を遂げて以降のことである。この点を理解していないと、この箇所の解釈は大混乱に陥る。
さて、イエスとパリサイ人たちの対立点は、以下のようなものであった。(1)パリサイ人たちは、モーセの律法を613 の戒めにまとめ、248 は為すべきこと、365 は禁止事項と教えていた。それ以外に種々の口伝律法(ハラハー、あるいはミシュナ法)を付け加え、結果的にモーセの律法を曲げて教えていた。(2)イエスは、モーセの律法を否定されたのではなく、パリサイ人たちによるモーセの律法の曲解を問題にされたのである。21 節以降で展開される教えは、メシア自身によるモーセの律法の解釈である。(3)イエスは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」(17 節)と言われた。このことばは、イエスが旧約聖書をいかに信頼していたかを示す決定的な証拠である。「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます」(18 節)。イエスに信頼を置くなら、旧約聖書を神のことばとして受け取るのは当然のことである。
「パリサイ人の義にまさる義」とは何か。それは、ユダヤ人であることに安住する義でも、613 の律法を守って得られる義でもない。それは、メシアを信じる信仰によって与えられる義である。メシアであるイエスは、① 律法の真の意味を説き明かし、② 律法の要求に従って生き、③ 罪人の身代わりとして刑罰を受けることによって律法を成就された。そのメシアを信じることこそ、神の義にあずかる唯一の方法である。
私たちは、信仰により、恵みによって救われた。私たちは律法の要求から解放されたが、無法主義者になったわけではない。内住の聖霊の力によって、キリストの律法を全うする者とされた。主イエスを信じたときから、自分の内面が変えられたことを覚え、神の御名をたたえようではないか。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。私に信仰による義を与えてくださり、感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
年間聖書通読
エレミヤ書40~41、詩篇65 ~ 66
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