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マタイの福音書5:1 ~ 2

1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。

2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。

「山上の垂訓」のイントロダクション

歴史的背景

マタイの福音書5 ~7 章に「山上の垂訓」と呼ばれる説教が出て来るが、この名称は、その説教が語られた「場所」を示しているだけで、内容については何も説明していない。そこで、その内容を理解するために、先ずこの説教の背景について学んでおこう。
(1)この時代、一般的なユダヤ人たちは、「神の国に入るために必要な義とは何か」を真剣に追求していた。旧約聖書の預言者たちは、神の国とメシア(王)の到来に関して、数々の預言を残していた。(2)中間時代(旧約聖書と新約聖書の間の時代)に台頭したパリサイ派の律法学者たちもまた、神の国に入るために必要な義について論じ合っていた。彼らが民衆に教えていた「律法の義」の概念がいねんは、幅広いものであった。「ユダヤ人として生まれた者は、すべて神の国に入れる」というのがそれである。さらに、律法に熱心に生きた者は、神の国で高い地位につくようになるとも教えていた。(3)しかし、バプテスマのヨハネやナザレのイエスは、悔い改めの必要性を説いた。一般民衆の疑問は、では、どちらの義が正しいのか、どちらの義が神の国に入ることを可能にしてくれるのか、というものであった。(4)この疑問に対するイエスの答えは、マタイ5:20 に出て来る。「もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません」。イエスは、パリサイ人たちが説く義では不十分であると宣言された。

山上の垂訓の特徴

(1)山上の垂訓は、救いに至る道を教えているのではない。つまり、「これを守れば、天国に入れる」ということではないのだ。もしそうなら、私たちは613 もあるモーセの律法をすべて守らなければならなくなる。(2)イエスは、山に登り、座って教えておられる。これは、ラビが弟子たちに教えるときの伝統的なスタイルである。(3)イエスのもとに集まって来たのは、弟子たちである。「弟子たちがみもとに来た」とある。山上の垂訓の本質は、「メシアによる律法の義の解釈」である。
聖書が教える救いは、信仰により、恵みによって与えられる。これを何度も復習する必要がある。分かったつもりでも、いつのまにか律法的になってしまうのが私たちである。もう一度、恵みによって救われたことと、聖霊によってのみクリスチャン生活が可能になることを思い出し、信仰の原点に立ち返ろうではないか。神は私たちの外面ではなく、内面を見ておられる。

きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。信仰による義を教えてくださり、感謝します。きょうも聖霊に導かれて歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

エレミヤ書32~33、コリント人への手紙 第二4