8 ギブアで角笛を吹き、ラマでラッパを鳴らし、ベテ・アベンでときの声をあげよ。ベニヤミンよ。警戒せよ。
9 エフライムは懲らしめの日に、恐怖となる。わたしはイスラエルの部族に、確かに起こることを知らせる。
10 ユダの首長たちは地境を移す者のようになった。わたしは彼らの上に激しい怒りを水のように注ぐ。
11 エフライムはしいたげられ、さばかれて打ち砕かれる。彼はあえてむなしいものを慕って行ったからだ。
12 わたしは、エフライムには、しみのように、ユダの家には、腐れのようになる。
13 エフライムがおのれの病を見、ユダがおのれのはれものを見たとき、エフライムはアッシリヤに行き、大王に人を遣わした。しかし、彼はあなたがたをいやすことができず、あなたがたのはれものを直せない。
14 わたしは、エフライムには、獅子のように、ユダの家には、若い獅子のようになるからだ。このわたしが引き裂いて去る。わたしがかすめ去るが、だれも助け出す者はいない。
15 彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう。
きょうの箇所でホセアは、来るべき患難について預言しています。北王国イスラエルと南王国ユダがともに裁きに会っていますので、これは北王国に対するアッシリヤ捕囚を預言したものでないことがわかります。この箇所は、患難時代にイスラエルの民の上に下る裁きを預言したものと理解すべきです。
(1)神の民に警告を発せよとの命令が出されます。「ギブアで角笛を吹き、ラマでラッパを鳴らし、ベテ・アベンでときの声をあげよ」。エルサレムから中央高原を北上すると、ギブア、ラマ、ベテル(ベテ・アベン)と続きます。(2)「ユダの首長たちは地境を移す者のようになった」とあります。モーセの律法では、地境(数個の小石を積み上げたもの)を移すことは他人の土地を奪うことであり、重大な罪であるとされました。後の時代になると、「地境を移す」という言葉が比喩的に用いられるようになります(箴言22:28、23:10参照)。その意味は、「善悪の基準を勝手に変える」ということです。ユダの首長たちは、自分勝手に善悪の基準を決めるようになったということです。それゆえ、神の裁きが彼らの上に下るのです。(3)エフライム(北王国)とユダ(南王国)は、自らの状態が(外面的にも内面的にも)病気であることを知り、神ではない他者に助けを求めるようになります。「エフライムはアッシリヤに行き、大王(ヤレブ王)に人を遣わした」とあります。歴史的には、北王国がアッシリヤと契約を結んだり、助けを求めたりしたことはありません。また、ヤレブ王(言い争う王という意味)という人物も存在しません。従って、この箇所は将来起こることを預言していると考えるべきです。彼らが助けを求める王とは、反キリストです(ダニエル書9:27、イザヤ書28:14~22)。
主は荒々しい獅子のように、神の民を引き裂き、そこを去ります。これは、患難時代に民が苦難に会うことを預言した言葉です。15節は非常に重要な聖句です。「彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう」。(1)「わたしの所」とは天国のことです。そこに戻るというのですから、まず地に下っていなければそのことが成立しません。これは、神の子であるイエスが、人として地上に下り、その後復活して天に昇られることを預言したものです。(2)患難時代にあって、イスラエルの民は苦しみながら、メシアであるイエスを探し求めるようになります。それが、イスラエルの民族的救いにつながるのです。それが起こると、イエスは栄光の王として再臨されます。
苦難がイスラエルの民を信仰に導くことを覚え、彼らの救いのために祈りましょう。また、人生で苦難を経験する時、そこから教訓を学ぶことができるように神に対して心を開きましょう。神は今も私たちに語っておられます。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。苦難には意味があることと、やがて主イエスが栄光の王として戻って来られることとを信じます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
年間聖書通読
創世記49~50、箴言4
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