9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
パリサイ人と取税人とが、祈るために神殿に上りました。今日でも、エルサレムの西壁では、多くのユダヤ人たちが祈っています。特に目立つのが、黒い衣服をまとっている正統派のユダヤ人たちです。イエス時代に置きかえれば、彼らは、パリサイ派に属する信仰熱心なユダヤ人たちと言えるでしょう。このパリサイ人の祈りに注目してみましょう。彼の祈りに、ウソはありません。(1)まず彼は、自分が取税人や罪人のような暮らしをしていないことを感謝しました。(2)次に彼は、自分が律法の要求以上の行為を行なっていることを感謝しました。律法は、年に一度の断食(贖罪の日に)を命じていますが、彼は、週に二度も断食をしていました。また、律法は、収穫物の十分の一をささげるように命じていますが(申命記14:22)、彼は、自分の庭で育つハーブの類に至るまで、すべて十分の一をささげていました。では、このパリサイ人の何がまちがっていたのでしょうか。彼は、乗る路線をまちがえていました。彼の乗っていたのは、自己義認という路線であって、神の恵みという路線ではありませんでした。しかし、このような祈りは、パリサイ人の専売ではなく、私たちのものである可能性もあります。私たちの中に、「私は、このパリサイ人のようではないことを、感謝します。」という思いがあるなら、私たちも、まちがった路線に乗っている可能性があります。
取税人の祈りの中には、深い悔い改めが表現されています。(1)彼は、遠く離れて立ちました。(2)目を天に向けようともしませんでした。当時のユダヤ人たちは、目を天に向けて祈るのが普通でした。(3)彼は、自分の胸をたたき続けました。文法的に、それが継続した動作であることがわかります。(4)彼は、神のあわれみにすがるしか道は残されていないことを知っていました。このたとえ話の結論は、義と認められたのは、パリサイ人ではなく、取税人であったという点にあります。これは、使徒パウロの教理と、一致します。「すべての人は、罪を犯したので、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ人への手紙3:23~24)。このたとえ話は、あなたの祈りをどのように変えますか。あなたの神の愛に関する理解を、どのように変えますか。そして、あなたのあかしをどのように変えますか。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神よ。どうか私が、天国に至る正しい路線に乗っていることを、日々確認できますように、お導きください。人知をはるかに超えた神の愛を感謝します。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
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ネヘミヤ記11~12、ヨハネの手紙 第三
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