49 わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。
50 しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。
51 あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。
52 今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。
53 父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」
「イエスは平和をもたらすために地上に来られたと思いますか。」という質問には、ほとんどの人が、「はい。」と答えるはずです。確かにその通りです。と同時に、イエスの次の発言にも目を留めておく必要があります。「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。」(49節)。「火を投げ込む」とは、さばきが下ることを意味します。神はイエスにあって、不信仰と罪とをさばかれました。そのさばきの究極的な形が、イエスの十字架です。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(コリント人への手紙第二5:21)とある通りです。イエスは、十字架の苦しみのことを、「私が受けるバプテスマ」と表現されました。イエスの生涯には、絶えず十字架の影がつきまとっていました。十字架は、イエスの生涯の最終ゴールであり、神の愛の具体的な表現でした。あなたは、人から誤解されて深い精神的な傷を負ったことがありますか。イエスは、罪人としての汚名をかぶせられ、多くの人の前で辱めを受ける体験をなさいました。イエスは、あなたの痛みをすでにご存じです。今、この方の御腕の中で安らぎましょう。
イエスに従う者には、負うべき十字架があります。十字架の道を歩み始めると、分裂が起こり始めます。なぜでしょうか。それは、献身した人生を歩み始めると、その人のことを快く思わない人たちが必ず現われるからです。また、悪霊の働きも活発になります。今まで一番近かった人たちが、激しく反対し始めることもよくあります。その情景をイエスは、「今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。」(52節)と表現されました。日本人は人と人との和を重んじます。そのような国民性を持ったお互いですから、分裂は極力避けたいと思うのは当然です。私も、献身の決心をしたとき、両親の理解を得られなかったことが一番つらいことでした。しかし、真実に生きれば、両親もいつか理解してくれるはずだと考え、神学校に進む道を選びました。表面的な平和を維持すること以上に大切なことがあります。それは、愛をもって真実を語るということです。一時的には分裂が来ても、その痛みはやがて、永遠の祝福につながります。あなたは、愛をもって真実を語ろうとしていますか。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神よ。あなたは、表面的な平和ではなく、真の平和を来らせるために、御子イエスを十字架におかけになりました。その愛を感謝します。どうか私を、自分の十字架を喜んで負う者と変えてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
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雅歌5~6、ヤコブの手紙3
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