43 悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。
44 木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。
45 良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。
46 なぜ、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。
47 わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行う人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。
48 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。
49 聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」
弟子たちへのイエスの教えが続きます。イエスは、「木はどれでも、その実によってわかるものです。」とお語りになりました。「なぜ、渋柿の木には渋柿しかならないのだろうか。」と自問自答してみましょう。答えは、その木が渋柿の性質を宿しているからです。当たり前のことです。もし甘い実をならせようとするなら、甘柿の枝を接ぎ木する必要があります。人間の常識では、物を取った人を盗人と言い、嘘をついた人を嘘つきと言います。しかし聖書は、人は盗人の性質があるから物を取り、嘘つきの性質があるから嘘をつくのだと教えます。内側にあるものが、外に出てくるのです。あなたは最近、荒々しいことばを口にしていませんでしたか。イエスの教えによれば、それは、あなたの心がざわついているからだということになります。もしそうなら、外側を飾り立てるよりも、心の管理に目を向けるべきではないでしょうか。ぶどうの木であるイエスに接ぎ木された枝として、イエスのうちにとどまるべきではないでしょうか(ヨハネの福音書15:5)。
平原でのメッセージの締めくくりとして、ルカは、家を建てた人のたとえを記して、教えを実行することの大切さを強調しています。マタイも同じ点を強調していますが、たとえの細部に若干の違いがあります。マタイの福音書では、二人の人は、違う場所に家を建てます。ルカの福音書では、同じ場所ですが、建て方が異なります。つまり、地面を深く掘って、土台を岩の上に据えたかどうかの違いです。この二つの家は、普段は同じように建っています。しかし、いったん嵐が来ると、正反対の結果が出ます。嵐という言葉は、比喩的に、人生で起こってくる試練を表わすと同時に、終末的な意味での神のさばきをも表わしています。(コリント人への手紙第一3:11~15には、各人の働きの真価が問われる瞬間が描かれています。)私の知り合いの中には、重病と闘っている人、自己破産を経験した人、愛する人を天に送った人など、さまざまな試練を通過してきた人たちがいます。それでも、彼らは輝いています。彼らに共通しているのは、イエスに基礎を置いた歩みをしてきたという点です。今のあなたの生き方は、終末的なさばきに耐え得るものとなっていますか。「主よ、主よ。」と祈るだけではなく、主に忠実に歩む信仰者とさせていただきましょう。
きょうの祈り
恵み深い神よ。あなたの愛に満ちた教えを感謝します。ある意味では、日々の歩みそのものが、人生の試練と終末的なさばきへの備えです。今、私の内側を変え、良い実を実らせる人生を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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ハバクク書1~3、テモテへの手紙 第一3
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