1 ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。
2 すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」
3 イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。
4 ダビデは神の家に入って、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」
5 そして、彼らに言われた。「人の子は、安息日の主です。」
6 別の安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに、右手のなえた人がいた。
7 そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。
8 イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った。
9 イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」
10 そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。
11 すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。
神は、人を祝福するために、安息日をお与えになりました。割礼がアブラハム契約の印であったように、安息日は、シナイ契約(神がシナイ山でイスラエルの民と結んだ契約)の印となりました(出エジプト記31:13)。しかしイスラエル人たちは、この安息日を重視するあまり、結果として、律法主義を招いてしまいました。あるパリサイ人たちが、イエスと弟子たちを、安息日違反の理由で糾弾します。旅人が、麦畑の麦を取って食べる行為自体は、許されていました(申命記23:25)。問題は、それが安息日に行なわれたことです。この小さな行為の中に、四つの罪が見い出されます。(1)麦を収穫した罪、(2)脱穀した罪、(3)実ともみ殻とをふるいわけた罪、そして、(4)食物を用意した罪。私たちも、このような重箱の隅をつつくパリサイ的精神と、決して無関係ではないはずです。最近、どちらでもよいようなことにこだわっていたことはありませんか。愛に根ざした判断でなければ、人を生かすことはできません。
イエスは、旧約聖書から、ダビデの生涯に起こったある出来事を引用されました(サムエル記第一21:3~6)。ダビデは、神の宮にあった「供えのパン」を取って食べ、部下たちにもそれを与えました。「供えのパン」を食することは、祭司のみに許されたことでしたが、ダビデの行為を非難する人はいませんでした。律法の規定よりも、人間の必要が重視されたからです。この後、イエスは、驚くべき宣言をなさいました。「人の子は、安息日の主です。」これは、イエスのメシヤ宣言となっています。ダビデ自身が、律法の規定を乗り越えることができたのですから、「ダビデの子」であるイエスが、安息日の規定に縛られるはずがありません。イエスが安息日の主であること、また、安息日は、善を行なうために設けられていることが、次の「右手のなえた人のいやし」の記事で明らかになります。イエスが、いかに「いのちを救うこと」を重視しておられたかに注目しましょう。イエスは、そのためにご自身のいのちをさえ犠牲にされたのです。私たちはどうでしょうか。滅びに向かいつつある人々の「いのちを救うこと」が、最大の関心事となっていたでしょうか。もし、名誉や伝統を守ることにより深い関心を払っているなら、今、神の前に悔い改めましょう。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神よ。いのちの尊さが、すべての規定に優先することを学ばせていただき、感謝します。私を、あらゆるパリサイ的な精神から解放してください。イエスの愛で満たしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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ミカ書1〜2、詩篇91~92
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