57 さて月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。
58 近所の人々や親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて、彼女とともに喜んだ。
59 さて八日目に、人々は幼子に割礼するためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしたが、
60 母は答えて、「いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません」と言った。
61 彼らは彼女に、「あなたの親族にはそのような名の人はひとりもいません」と言った。
62 そして、身振りで父親に合図して、幼子に何という名をつけるつもりかと尋ねた。
63 すると、彼は書き板を持って来させて、「彼の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた。
64 すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた。
65 そして、近所の人々はみな恐れた。さらにこれらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体にも語り伝えられて行った。
66 聞いた人々はみな、それを心にとどめて、「いったいこの子は何になるのでしょう」と言った。主の御手が彼とともにあったからである。
ルカの福音書1章を貫くテーマは、「神のあわれみ」です。マリヤもその賛歌の中で、二度「あわれみ」という言葉を使っています(50、54節)。ヨハネ誕生の記事も、「神のあわれみ」という文脈の中で書かれています。エリサベツは、天使の約束どおり男の子を産みました。その知らせは、共同体の中に大きな喜びをもたらしました。長子の誕生は喜ばしいものですが、今回は、通常の長子の誕生にはない祝福がありました。老年になったエリサベツが、男の子を産んだからです。人々は、主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて、ともに喜びました。まるで私自身がその喜びの中に招かれているような気がしてきます。私たちも、今までなんと大きな「神のあわれみ」を受けてきたことでしょうか。そのことを思い出してみましょう。そして、イエス・キリストを通して、この喜びの中に加えられる人が一人でも多く起こされるように、祈り、励みましょう。
幼子は、八日目に割礼を受けました。これは、アブラハム契約の印です(創世記17:12、レビ記12:3)。人々は、当時の習慣によって、幼子をザカリヤと名づけようとしました。母エリサベツは、「いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません。」と答えています。彼女の強い意志が感じられます。そこで、父ザカリヤの意見を聞くために、板の表面にロウが塗られた書き板が運ばれてきます。ザカリヤとエリサベツは、ここ数ヶ月の間、このような書き板を通して会話をしていたに違いありません。父は、「彼の名はヨハネ。」と書きました。原文のギリシャ語では、もっと鮮明にザカリヤの思いが表現されています。「ヨハネ」という名が最初に来ます。動詞の時制は、現在形です。あたかもザカリヤが、「今、ヨハネという名をつけるのではない。それは、主のご計画によってすでに決まっている名である。」と語っているようです。そのとき、ザカリヤの口が開け、舌が解けました。彼が最初にしたのは、神を賛美することでした。神のみこころを発見し、そこに自らをゆだねたとき、私たちの口からも主への賛美が生まれます。そして、喜びとともに、恐れが心を満たします。それは、カルト集団を支配しているような恐れではなく、真の神に対する畏怖の念です。あなたは、そのような喜び、畏怖の念を体験したことがありますか。
きょうの祈り
恵み深い神よ。あなたが私の人生にご用意してくださった計画が、すべて成就しますように、私をお導きください。みこころに従順なしもべとならせてください。喜びと畏怖の念で満たしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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エゼキエル書40~41、ピリピ人への手紙1
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