26 あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、
27 きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方。
28 あなたは、悩む民を救われますが、高ぶる者に目を向けて、これを低くされます。
29 主よ。あなたは私のともしび。主は、私のやみを照らされます。
30 あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。
31 神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。
32 まことに、主のほかにだれが神であろうか。私たちの神のほかにだれが岩であろうか。
33 この神こそ、私の力強いとりで。私の道を完全に探り出される。
34 彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。
35 戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓でも引けるようにされる。
神が人間に対してどのような報いを与えるかは、人間が神に対してどのような態度を取るかによって決まってきます。それが、「あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方」(26~27節)という聖句の意味です。
ダビデは神をさまざまなものにたとえてその御名をほめたたえています。(1)主は人生の暗やみを照らす「ともしび」です。主は私たちに方向性を示し、将来に希望を与えてくださるお方です。(2)主は私たちに城壁を飛び越える力を与えてくださいます。城壁とは、戦いをイメージしたことばですが、さまざまな困難と解釈してもいいでしょう。クリスチャンは超自然的な力によって困難に勝利し、幻を実現させるのです。(3)主は、すべて主に身を避ける者の「盾」です。主に身を避けるとは、聖書のことばを信頼して歩むことです。聖書のことばは完全で、純粋です。それは主ご自身が完全で、純粋であることを表わしています。(4)主は「力強いとりで」です。主のほかに神はいません。また、主のように力強いとりではありません。「私の足を雌鹿のようにし」とか、「私の手を鍛え」とかいう表現は、戦いに勝利するための資質を表わしています。かつてダビデは石投げ器を武器としていた少年でしたが、最後は青銅の弓を引くほどの戦士となりました。そのように、主は私たちを「神の戦い」に勝利するように訓練してくださいます。
私たちの人生には、自分の力だけではどうすることもできないような試練がやってきます。クリスチャンにとって重要なことは、信仰によって超自然的な力を受け、それを武器として戦うことです。(1)主に信頼するとは、主のことばである聖書を読み、その教えを実践することです。日々のデボーションが重要なのは、そのためです。(2)超自然的な力を受ける方法は、祈りと従順です。祈りによって主と交わり、聖書を通した主からの語りかけに従順に歩むなら、自分でも説明できないような力に満たされるようになります。今私たち自身のことばで、主の素晴らしさをほめたたえようではありませんか。
きょうの祈り
全知全能の神よ。あなたは私の盾であり、とりでです。きょうもあなたを盾として歩みます。私をあなたの力で満たしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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エゼキエル書16~17、ガラテヤ人への手紙5
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