54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。
55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。
「こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。『主イエスよ。私の霊をお受けください』」。(1)飛んで来る石の衝撃を感じながらステパノはイエスに言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください」。これは、ルカ23:46 にあるイエスの祈りとよく似ている。「父よ。わが霊を御手にゆだねます」。(2)ステパノは、主イエスに自分の霊を委ねた。これは、イエスの神性を証明する聖句である。
「そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を彼らに負わせないでください。』・・・」。(1)ユダヤ人の習慣では、石打の前に、自分の罪を告白することになっていた。あるいは、単に「私の死が、私のすべての罪の贖いとなるように」と祈る場合もあった。(2)ステパノの場合は、これとは違った。①彼は、ひざまずいて、大声で叫んだ。リーダーたち、偽証人たち、群衆に聞こえるように、大声で叫んだのである。②「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」。これは、ルカ23:34 のイエスの祈りと似ている。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」。(3)「眠りについた」とは、死を示す婉曲語である。彼の肉体は、動かなくなった。彼の魂は、神のもとに帰った。復活の時、彼の肉体と魂は合体する。
(1)ユダヤ人たちには、死刑を執行する権利がなかった。それゆえ、イエスを死刑にするためには、ローマの法廷で有罪を勝ち取る必要があった。しかし、ステパノの死刑は、ローマの法廷とは無関係に行われた。なぜなのか。(2)イエスの裁判とステパノの裁判には大きな違いがある。①イエスは有名であり、ステパノは無名である。②イエスの場合は、民衆の怒りを買う可能性があった(民衆の騒動により、指導者たちも反逆罪に問われる恐れがあった)。③ステパノの場合は、自分たちで裁いても暴動が起こる可能性は低いと議員たちは判断した(当時ピラトは、本国での政治問題に巻き込まれていた)。
神はなぜステパノが殺されることを容認されたのであろうか。これは難しい質問である。一つ言えるのは、神はこの悲劇さえもご自分の計画のために用いることが出来るということである。ステパノの殉教をきっかけに、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こった。しかしそれは、伝道の拡大につながった。試練に遭った時、信仰と希望を選ぼう。
きょうの祈り
恵み深い神よ。あなたは、悲劇でさえもご自分の計画のために用いることができるお方です。あなたの御心を信頼します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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