19 夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。
20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。
21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」
22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。
23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。
24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
25 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」
きょうの箇所は、火曜日の朝の出来事です。弟子たちは、イエスが前日に呪ったいちじくの木が枯れているのを発見しました。ここから、いくつかの教訓を学んでみましょう。
(1)空腹を覚えたというのは、イエスが私たちと同じような人性を持っていたことを示しています。過越の祭りは春の例祭です。いちじくの木は春になると葉を茂らせますが、その時、小さな実(初なり)を付けます。イエスが期待したのは、その初なりだったのでしょう。しかし、その木には葉以外のものはありませんでした。(2)イエスはその木を呪い、その木は翌日枯れていました。これは、イエスの神性を示しています。旧約聖書の伝統では、いちじくの木はイスラエルを象徴しています(エレミヤ書24:5、ホセア書9:10参照)。ここでは、いちじくの木は当時のユダヤ人の宗教、つまりパリサイ主義の信仰を象徴しています。一見敬虔そうに見えながら、霊的実質が伴っていないのが当時のパリサイ派の信仰でした。イエスはそのような形骸化したユダヤ教を糾弾されました。
私たちの信仰はどうでしょうか。表面を飾る信仰ではなく、御霊の実をつける信仰を求めようではありませんか。
イエスはこの機会を捉えて、弟子たちに教訓を語ります。(1)枯れたいちじくの木は、不信仰なイスラエルの運命を予表しています。エルサレムは、紀元70年にローマ軍によって滅ぼされますが、滅びの真の原因はイスラエルの民の不信仰にありました。(2)信仰による祈りには力があります。「山が動いて海にはいる」という表現は、当時のラビたちがよく使っていたものですが、イエスはそれを用いて、信仰による祈りには力があることを弟子たちに教えました。(3)祈りが聞かれるためには、赦しの心を持っている必要があります。自分が神からどれほどの罪を赦していただいたかがわかると、他の人への赦しの心も与えられます。もし他の人を憎んでいるなら、その人の祈りは本物になっていません。赦しがわかっていないからです。
今、苦々しい思い、赦せない心を、聖霊によって取り去っていただきましょう。実を付けるいちじくの木にしていただきましょう。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。どうか私の人生を、実を付けるいちじくの木のようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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