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マルコの福音書9:30~32

30 さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。

31 それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる」と話しておられたからである。

32 しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。

二度目の受難の予告

霊の目が閉ざされていた弟子たち

変貌山(ヘルモン山)を去ったイエスは、ガリラヤを通って南のほうに移動しておられました。イエスのガリラヤでの活動期間も終わりに近づいていました。この時点でのイエスの最大の関心事は、エルサレムで起ころうとしている受難の出来事にいかにして備えるか、ということでした。実際に十字架にかかるという出来事が起こった時のために、弟子たちを訓練しておく必要があります。きょうの箇所でイエスは、自らの死と復活の予告をしておられます。これは、弟子たちを訓練し、その悲劇に備えさせるためです。
(1)これは、二度目の受難の予告です。最初の予告は、マルコの福音書8:2737(マタイ162128)に出てきました。(2)第一回目の受難の予告に対しては、ペテロが激しく抗議していました。なんとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めたのです。彼は、いつの間にか主イエスの上に立ってしまっていたのです。(3)イエスの応答は、「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」というものでした。

第二回目の予告

今回もまた、弟子たちは受難と復活の意味を理解することができませんでした。彼らは当惑し、イエスに尋ねるのを恐れました。弟子たちがイエスの十字架の意味を理解したのは、ペンテコステの日に聖霊が降臨して以降のことでした。
この短い箇所から、どういう教訓を学べばいいのでしょうか。(1)福音の中心は、十字架です(Iコリント2:2参照)。あなたの信仰の中心は、十字架にありましたか。(2)私たちを真理に導くのは、聖霊です。聖霊の働きなくしては、信仰を持つことはあり得ないのです。まだイエスを主と告白していない人たちのために祈りましょう。聖霊が働いてくださるように、父なる神に願いましょう。(3)私たちの人生には、予期せぬ出来事が起こります。それによって私たちは、悲しみ、当惑し、恐れます。しかし、神はいっさいのことを支配しておられます。信仰の力によって、試練を乗り越えることを学びましょう。神は、最善をなしておられることを信じましょう。

きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。どうか、聖霊の力によって、私の霊の目をさらに開いてください。神の計画を妨害することのないように、私を義の道へと導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

歴代誌 第一22~23、詩篇135 ~ 136