25 ですが、今は、聖徒たちに奉仕するためにエルサレムへ行こうとしています。
26 それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです。
27 彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。
28 それで、私はこのことを済ませ、彼らにこの実を確かに渡してから、あなたがたのところを通ってイスパニヤに行くことにします。
29 あなたがたのところに行くときは、キリストの満ちあふれる祝福をもって行くことと信じています。
前回は、パウロの長期計画について学びました。彼は、イスパニヤ伝道のために、ローマ教会からの宣教協力を期待していました。きょうの箇所は、パウロの短期計画に関するものです。この箇所を3回に分けて学びます。忠実な奉仕を展開するためには、将来の夢や願いよりも、目前の責務を優先させる必要があります。長期計画だけを論じている人は、地に足の着かない夢想家です。一方、短期計画だけにとらわれている人は、単なる実務家です。私たちに必要なのは、バランス感覚と優先順位の判断です。
パウロは、「ですが、今は、聖徒たちに奉仕するためにエルサレムへ行こうとしています」(25節)と書いています。(1)この背景は、使徒19:21に出てきます(文脈は、エペソでの奉仕が終了したということ)。「これらのことが一段落すると、パウロは御霊の示しにより、マケドニヤとアカヤを通ったあとでエルサレムに行くことにした。そして、『私はそこに行ってから、ローマも見なければならない』と言った」。(2)パウロは、イスパニヤに行く(ローマ教会を訪問する)前に、エルサレムに行く必要があると感じていました。なぜなら、エルサレム教会の聖徒たちが困窮していたからです。当時、飢饉のために、エルサレムのユダヤ人たち全般が苦しんでいましたが、ユダヤ人信者たちの苦しみは格別でした。飢饉の上に迫害が彼らを襲っていたからです。そういう状況をよく把握していたパウロは、母教会援助の旅を敢行しようとしたのです。
パウロは、「それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです」(26節)と書いています。(1)パウロの願いは、異邦人教会が、エルサレム教会を援助することです(1コリ16:1〜4、2コリ8〜9章参照)。(2)マケドニヤとアカヤの聖徒たちが捧げたのは、自発的な献金です。「喜んで」という言葉に注目しましょう。「醵金」と訳された言葉は、「コイノニア」です。これは本来「交わり」を指す言葉です。エルサレム教会支援のために献金することは、異邦人信者がユダヤ人信者に交わりの手を差し伸べることです。これは、信者が為すべき愛の行為ですが、そこにはより深い神学的な意味があります(次回、それを学びます)。交わりの手を差し伸べるとは、喜んで、具体的な援助を差し出すことです。このことを覚えましょう。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。喜んで、具体的な援助を差し出すことが、真の交わりであることを学びました。それを実行することができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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サムエル記第一20~21、使徒の働き1
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