1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
きょうの箇所から、ロマ書は新しい区分に入ります。パウロ書簡の特徴は、まず教理が語られ、それから適用が示される点にあります。たとえば、エペソ書の場合は、1〜3章が教理、4〜6章が適用となっています。ロマ書の場合は、1〜8章が教理、9〜11章がイスラエルの救い、そして、12〜16章が適用です。ところで、ロマ書12:1〜2ほど、神学的概念が多く盛り込まれた箇所はほかにはないと思われます。そこで、この短い聖書箇所を数回に分けて学びます。
「そういうわけですから、兄弟たち」(新改訳)とあります。(1)「そういうわけですから」とは、ギリシア語で「ウーン」、英語で「therefore」です。聖書研究では、このような接続詞がキーワードとなりますので、要注意です。(2)「そういうわけですから」が、どこまでを指すのか、よく考える必要があります。9〜11章でしょうか。あるいは、1 〜 11章でしょうか。後者が正解でしょう。つまりパウロは、ロマ書1〜11章で展開してきた神学的議論を基に、具体的な勧めに入るのです。
1〜8章(神の義の神学)では、次の3点が教えられました。① 義認(過去形の救い)、② 聖化(現在進行形の救い)、③ 栄化(未来形の救い)。締めくくりとして、パウロはこう宣言しました。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(8:38〜39)。
9〜11章では、イスラエルの救いが論じられました。① イスラエルはイエスを拒否した。② しかし、神の計画が挫折したわけではない。③ 彼らがメシアを拒否することは、旧約聖書に預言されていた(もし彼らがイエスを信じていたなら、イエスはメシアではないことになる)。④ イスラエルがつまずいた結果、救いは異邦人に及んだ。⑤ それ以降、ユダヤ人も異邦人も、個人的なベースで救われる時代に入った。⑥ 終わりの時に、イスラエルは民族的救いを経験する。
以上の真理を踏まえて、パウロは適用に入ります。神学的理解が不十分なままで適用だけを語ると、ロマ書7章クリスチャン(肉の力で生きようとするクリスチャン)に逆戻りする危険性があります。「主キリスト・イエスにあって」、私たちは神から愛されています。このことを再確認し、御名をたたえようではありませんか。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。あなたの愛と恵みのゆえに、感謝します。私は決して孤独になることはありません。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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