33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
34 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。
35 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。
36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン」(33〜36節)。(1)この箇所で、ロマ書は神学的議論のフィナーレを迎えます。ここでパウロは、「神の知恵と知識」を思い、神をたたえています。パウロに啓示された真理は、人間が計画したり、思いついたりできるようなものではありません。キリスト教は、まさに啓示宗教なのです。(2)特に重要なのは、イスラエルに対する神の計画を理解することです。神の視点からイスラエルの役割を理解したなら、「神の知恵と知識」に驚嘆させられるはずです。(3)きょうの箇所に記された頌栄は、次の12 〜 16章で記される実践的教えへの序曲となっています。これで私たちは、ロマ書12〜16章に入る準備ができました。
先に進む前に、ここで頌栄が出ている意味について考えてみましょう。(1)神学的議論(1〜11章)の最後が頌栄で終わっています。神学者の中には、この頌栄の部分はパウロが自筆で書いたのではないかと言う人までいます。それほど重要な箇所です。(2)パウロが神学的議論の最後に頌栄を入れたという事実から、教訓を学びましょう。その教訓とは、「神学なしの礼拝はない」ということであり、同時に、「礼拝なしの神学もない」ということです。(3)神学に礼拝の要素がないなら、それは真の神学とは言えません。ここまでの神学的議論の過程でも、パウロは随所で神の栄光をたたえてきました。
パウロは、「無知でいてほしくない」という呼びかけをしました(11:25)。その呼びかけは、パウロ書簡では常に、「アデルフォイ(兄弟たち)」という言葉とともに出てきます(ロマ1:13、1コリ10:1、12:1、2コリ1:8、1テサ4:13参照)。「知識のない熱心」はよくありません。知的理解と礼拝とは車の両輪のようなものです。「日本の霊的覚醒(目覚め)は、聖書研究から」というモットーを信じて、これからも励みたいと思います。
きょうの祈り
全知全能の神よ。あなたの知恵と知識の不思議さを前に、私は驚嘆しています。あなたの御名を心からたたえ、あなたに礼拝をおささげします。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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