35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
いよいよ「確信と賛美の歌」の結論部分に入ります。パウロはこう言います。これは、ほとんど歓喜の叫びです。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです」(35〜 36節)。ここには、苦難のリストが出てきます。先に行くと次の苦難のリストが出てきますので、ここでは「苦難のリストその1」と呼んでおきます。
(1)「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか」とありますが、これに続く「苦難のリストその1」には、人は出てきません。パウロが「なにが」ではなく、あえて「だれが」と言った理由は何でしょうか。① これを擬人法と解釈するなら、「苦難は現実的なものである」ということを強調したことになります。② もうひとつの解釈は、苦難は「人格的存在」から発せられるものなので、「だれが」になっているというものです。いずれにしても、パウロにとっては、苦難は生々しいほど現実的なものでした。(2)試練は、神の民の普遍的な経験です。ここでパウロは、詩篇44:22を引用しています。この聖句が、試練の普遍性を伝えるためにふさわしいと考えたからでしょう。(3)パウロは、「苦難のリストその1」の中で、「患難」という言葉を使っていますが、これは、大患難時代を想起させるものです。
次に勝利宣言が続きます。「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」(37節)。神が私たちに下さった約束は、苦難からの解放ではありません。約束の内容をよく見てみましょう。(1)「これらすべてのことの中にあっても、」とありますので、これは、苦難の中にあって勝利するという約束です。これがクリスチャン生活の本質です。(2)「私たちを愛してくださった方によって」とありますので、勝利の力はキリストから与えられるものです。(3)「圧倒的な勝利者となる」とありますので、これは、四苦八苦した辛勝ではなく、圧倒的な勝利です。
きょうもローマ8:37を自分の宝物として、この世に出て行きましょう。私たちは、「圧倒的な勝利者」となるのです。
きょうの祈り
天の父なる神さま。ローマ8:37は私の宝物です。キリストにあって圧倒的な勝利者とされていることを感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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