1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
前回は、1節を学びました。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(1節)。福音を信じた瞬間に、私たちは新生し、聖霊のバプテスマによってキリストと一体化させられました。これが、私たちの新しい状態です。「キリストにある者」は、罪の責めから解放されています(これが義認です)。そして、聖化もまた、それと同じ方法で実現します。つまり、恵みにより、聖霊によって実現するということです。
「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」(2節)とあります。ここには、2つの原理の対比があります。(1)新しい原理 ①:これは、「キリスト・イエスにある」原理です。私たちは、キリストとの一体化によって、新しい原理に従って生きるようになりました。神は私たちに、武器なしで戦えとは命じておられません。キリストにつながることこそ、最高の武器です。ヨハネ15:5にはこうあります。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」。(2)新しい原理 ②:新しい原理の別名は「いのちの御霊の原理」です。ヨハネ7:38 〜39にはこうあります。「『わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる』。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。…」
(1)古い原理:これは、「罪と死の原理」です(ロマ7章で見た原理)。この原理は、自力で律法を行う生活は不可能であり、そのような生活はやがて死に至るということを教えています。(2)新しい原理が古い原理から「あなたを解放した」とあります。ここでの動詞の時制は、アオリスト形です。つまり、この解放は、信じたときに起こった一度限りの出来事であることを示しています。「罪と死の原理」は、私たちに対する法的権威を失ったのです。このことを認めることが大切です。
クリスチャンの中には、神との平和を得ているのに、主観的には自分を責めている人が多くいます。しかし、罪責感を強調するのは、神の計画に人間的な援助を付け加えようとする愚かな行為です。
きょうの祈り
天の父なる神さま。私はすでに神との平和を得ています。どうか私を、主観的で不必要な罪責感から解放してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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