7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。
9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
10 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
11 それは、戒めによって機会を捕らえた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。
12 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。
13 では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。
きょうは、罪と律法の関係について学びます(7節のみ取り上げます)。「本来よいものであるはずの律法が、どうして死をもたらすのか」というのが、ここで扱う疑問です。この箇所は、パウロの体験が土台になっています(「私」という一人称が9回も使われています)。彼は、自分の体験を基に普遍的真理を述べています。
さて、律法の第一の目的は、「私」に罪を示すことにあります。「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません」(7節a)とあります。(1)「律法は罪なのでしょうか」と質問しているのは、パウロが前回の箇所で律法に関して否定的なことを言ったからです。これは、論理的帰結であり、当然の疑問です。この質問に対してパウロは、「絶対にそんなことはありません」と答えています。問題は律法にではなく、人間の側にあるからです。
「ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、『むさぼってはならない』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう」(7節b)。(1)パウロは、自分に罪はなかったと言っているのではありません。罪の性質は、アダム以来、全人類が引き継いでいるものです。罪人には、罪の性質に従って生きていても、それが罪であるという認識はありません。律法が与えられて初めて、罪の認識が起こるのです。(2)「むさぼってはならない」という命令は、出エジプト20:17に出てきます。「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」(申5:21も参照)。(3)「むさぼりを知らなかった」とは、むさぼりが罪であることを知らなかった、という意味です。
先に進む前に、律法に関する誤解を解いておきましょう。多くのクリスチャンが、「律法」について否定的イメージを持っています。しかし、律法は本来よいものです。私たちは、律法と律法主義を区別する必要があります。律法主義は悪いものです(この区別は、特にユダヤ人伝道においては非常に重要な要素となります)。律法主義とは、人間のわざによって聖化を推し進めようとする教えで、これは聖化と律法の関係を誤解していることから発生するものです。聖化は律法によるのではなく、信仰により恵みによります。
きょうの祈り
天の父なる神さま。律法は私に、罪が何であるかを教えてくれます。しかし、律法には救いはありません。私を律法主義から解放してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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