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ローマ人への手紙5:6 〜 10

6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔ふけいけんな者のために死んでくださいました。

7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

義認の喜び(7)

感動的脱線

6〜 10節までは、文脈から脱線した箇所です。「神の愛」について触れたので、パウロは感動のあまり、そのテーマの展開に入っていったのでしょう。6節にはこうあります。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました」。(1)「弱かったとき」とは、神に応答する力がなかったときという意味です。この言葉は、病人に使う言葉です。肉体的に弱いという意味なのですが、それが道徳的な弱さを示す意味で使われています。「私たちがまだ弱かったとき」とは、私たちが神の教えや愛に応答できなかったとき、つまり、私たちが受動的な意味での罪人であったとき、という意味です。(2)「定められた時」とは、あらかじめ決定されていた時という意味です。それは、人類の罪に対する神の怒りが限界に達した時のことです。その時神は、ご自身の怒りを御子イエスの上に注がれました。(3)そのような時に、キリストは私たち(不敬虔な者)のために死んでくださいました。

能動的な罪人のために

7 〜 9節にはこうあります。「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」
(1)「罪人であったとき」とは、神に敵対していたとき、という意味です。これは、私たちが能動的な意味での罪人であったことを示しています。そのような時に、キリストは私たちのために死んでくださいました。(2)さらにパウロは言います。「敵のために死ぬ人はいない。正しい人のためでも死ぬ人はいない。情け深い人の場合は、そういう可能性もある」と。キリストの死は、常識ではありえないことです。なぜなら、キリストは私たちが能動的罪人であった時に、死んでくださったからです。それによって神は、私たちに対する愛を明らかにされました。
御子イエスの死によって示された神の愛は、私たち人間には想像すらできないことです。クリスチャンとは、その愛を信じ、受け入れた人のことです。私たちの救いは、神の愛によって始まり、神の愛によって完成へと導かれます。

きょうの祈り

イエス・キリストの父なる神さま。私は、あなたの愛によって救われ、あなたの愛によって運ばれています。この祝された位置に私を置いてくださったことを感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

ネヘミヤ記3~4、ヨハネの手紙 第一3