27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。
28 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。
30 神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。
31 それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。
ここまでの文脈を確認してみましょう。今、パウロは、「義認」について論じています(1:18 〜 5:21)。① 彼は、有罪宣言(1:18 〜 3:20)について論じ、ユダヤ人も異邦人も、ともに神の前では罪人であると断じました。② さらに、義の提供(3:21 〜26)について論じ、人は信仰によって義とされる(信仰義認)と結論づけました。それを受けて、きょうの箇所でパウロは、2つのことを論じようとしています。① 義認と律法の関係、そして、② 義認と律法の調和、がそれです。つまり、信仰義認が真理であるとするなら、律法はどうなるのか、という問題です。
「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです」(27節)。(1)ユダヤ人も異邦人も、自らが大切だと思うものを持っていました。しかし、キリストの福音は、それらのものとは根本的に異なります。つまり、人間の側に誇りとするものは何もないということです。(2)信仰義認の教理を受け入れた場合は、人間の誇りはなくなります。つまり、「それはすでに取り除かれた」という状態になるのです。この言葉は、「すでに部屋から閉め出された」、「鍵がかけられた」、という意味になります。(3)どういう原理(原則)によって「誇り」は閉め出されたのでしょうか。行いの原理によってではありません。行いによる義の獲得は、誇りを生みます。信仰の原理によって、誇りは閉め出されたのです。
パウロは、1コリント1:22 〜 24でこう書いています。「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです」。人間的誇りは、神の恵みを受け取る際の最大の妨害になります。私たちは、信仰によって救われました。それゆえ、キリストの十字架だけを誇りとしようではありませんか。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。私にとっては、キリストの十字架だけが誇りです。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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エステル記3~4、ヤコブの手紙4
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