21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
先に進む前に、「義認の7つの祝福」を確認しています。自らが天国の国籍を与えられていることを確信するために、「義認」を保証している聖句を、しっかりと握りしめようではありませんか。今回は、(4)〜(7)の祝福を取り上げます。
(4)義認の仲介者は、聖霊である。つまり、聖霊の働きによって人は信仰に導かれ、義認を受けるということです。聖霊の助けがなければ、伝道は不可能です。1コリント12:3にはこうあります。「ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、『イエスはのろわれよ』と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」
(5)義認の証拠は、行いである。行いは義認の条件ではありません。それどころか、行いによって義とされる人は、誰もいません。しかし、行いは義認の結果として重要です。それを教えているのが、ヤコブ2:21 です。「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか」(ヤコ2:24 〜25 も参照)。
(6)義認の結果は、「キリストの内にある」ということである。「キリストの内にある」という真理は、義認を受けた人の特権です。これを忘れるなら、私たちは神の子としての特権を放棄したことになります。1コリント1:30 にはこうあります。「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」。さらに、2コリント5:21にはこうあります。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」
(7)義認の本質は、恵みである。神の恵みがないなら、誰も義とされることはありません。24節にはこうあります。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」。さらに、テトス3:7 にはこうあります。「それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです」。まさに「アメイジング・グレイス(驚くばかりの恵み)」ではありませんか。恵みのゆえに、神をたたえようではありませんか。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。自らの汚れを知れば知るほど、あなたの恵みの深さに感動を覚えます。私のような者も救ってくださり、感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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