9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」
13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
15 「彼らの足は血を流すのに速く、
16 彼らの道には破壊と悲惨がある。
17 また、彼らは平和の道を知らない。」
18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
パウロは、すべての人が罪人であることを証明するために、旧約聖書から7カ所を引用し、それらの聖句を列挙しています。ある事項を証明するために似たような聖句をつなげていく論法(手法)を、「真珠の数珠つなぎ(英語でpearl-stringing)」の論法と言います。これはユダヤ教のラビ的手法の一つです。一連の引用は、4つの部分に分類することが可能です。今回は、第2番目〜第4番目の分類について見てみます。
「すべての人が言葉の罪を犯している」というのが、第2番目の分類です。「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く」。「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」。「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている」。これは、詩篇5:9、140:3からの引用です。(1)ここでは、言葉を発する器官が4つ上げられています。のど(開いた墓)、舌(欺きの道具)、くちびる(まむしの毒がある)、口(のろいと苦さで満ちている)がそれです。言葉を用いた罪がいかに恐ろしいか、よく分かります。今、自らの姿を省みて、主の前に罪を告白しようではありませんか。
「すべての人が隣人に対して罪を犯している」というのが、第3番目の分類です。「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない」。これは、イザヤ59:7〜8からの引用です。(1)イザヤ書のその箇所の大きな文脈は、イスラエルの霊的回復です。直前の文脈では、イスラエルの国家的罪が論じられています。(2)その罪が、神とイスラエルの民を隔てる中垣となっているというのです。
「彼らの目の前には、神に対する恐れがない」というのがまとめであり、第4番目の分類です。これは、詩篇36:1からの引用です。「罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない」とあります。有罪の証拠の前に、私たちは沈黙するしかありません。その無力感と絶望感が、私たちを神の愛へと導くのです。「神は愛なり」。何と麗しい言葉ではありませんか。
きょうの祈り
天の父なる神さま。私は自力で自分を救うことができません。救いは、恵みにより、信仰によることを認めます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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