18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
19 それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。
20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです」(18節)とあります。「というのは」という接続語を訳出しているのは、3つの日本語訳では新改訳だけです。これは重要な接続詞ですので、訳す必要があります。パウロは、17節でロマ書のテーマを提示しました。「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」。きょうの箇所から、そのテーマの論証が始まるのです。その内容は、8章の終わりまで続きます。パウロは、福音以外の救いの方法は無力であることを論証しようとしています。
(1)「神の怒り」とは、神の不快感、神の立腹のことです。神の怒りは、復讐とは違います。それは、神の愛の中に含まれる感情のことです。(2)神の怒りは、「人間の不敬虔と不正に対して」向けられたものです。「不敬虔」とは、宗教的な意味での罪のことです。神を無視すること、神がいないかのような生活を続けていること、などがこれに当たります。一方、「不正」とは道徳的な意味での罪のことです。(3)神の怒りが向けられている人々とは、「不義をもって真理をはばんでいる人々」のことです。新共同訳は、「不義によって真理の働きを妨げる人間」と訳しています。
「それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです」(19節)とあります。ここでの接続詞は、「それゆえ」ではなく、「なぜなら」(新共同訳)と訳すべきです。これは「ディオティ」という接続詞であり、異教徒がどのようにして真理を押さえつけているかを明らかにしているものです。(1)聖書を持たない人にも啓示が与えられています。被造世界を通して、神についての知識を得ることができるのです。(2)程度の差はあっても、すべての人に何らかの啓示が与えられています。人間は神の「かたち」に創造されていますので、神を認識する能力があるのです。
もし与えられている真理を押さえつけているなら、ますます真理からは遠く離れて行きます。その逆に、与えられている真理に応答するなら、より多くの真理を知るようになります。私たちには弁解の余地はないのです。真理に応答する者とならせていただきましょう。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。あなたが示してくださる真理に積極的に応答する者とならせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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