18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
19 それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。
20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
21 それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。
22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
1:1 〜 17は、この書簡の序言に当たる部分です。きょうの箇所から、救いの第1番目の要素である「義認」についての論考が始まります。義認とは、「神が罪人に神の義を転嫁すること」を意味します。つまり、神の御前で無罪宣言を受けることです。1:18 〜5:21 までが「義認」の箇所に当たります。
パウロは、義認を論じる前に、罪についての論考を展開します。罪人としての自覚がないなら、救いを求めて神のもとに来ることはないからです。パウロはまず、すべての人が有罪であることを論証しようとしています。1:18 〜 3:20が、その有罪宣言の箇所に当たります。私たちは、自らが霊的に病人であることを知らなければ、霊的医者(イエス・キリスト)のもとに来ることはありません。
パウロの論理展開を理解するためには、人類の2分法を知らなければなりません。(1)ユダヤ人による人類の2分法は、ユダヤ人と異邦人(異教徒)に区別することです。これは、割礼を受けている者と無割礼の者との区別です。(2)それに対して、ギリシア人(あるいはローマ人)による人類の2分法は、文化的な人と野蛮人に区別することです。ギリシア語を話す人が文化的な人で、そうでない者は野蛮人です。
以上の2種類の分類法に従って、パウロは次のように論考を進めて行きます。①異教徒の罪(1:18〜 32)。②文化的異教徒の罪(2:1〜16)。③ユダヤ人の罪(2:17〜 3:8)。④結論:すべての人は罪人である(3:9〜 20)。
パウロが、「義認」の前に「罪」について論じている理由を考えてみましょう。人は、自分が神の前に罪人であり、滅びに向かっているという認識を持たない限り、神から与えられる救いが必要だとは考えません。この認罪という状態が、救いの前提条件となります。主イエスはこう言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マコ2:17)。自分が病人であることを認める人は幸いです。まだ救われていない私たちの回りの人たちが、認罪に導かれるように、祈ろうではありませんか。
きょうの祈り
イエス・キリストの父なる神さま。日本に霊的覚醒が起こるために、どうか多くの人たちを「認罪」へとお導きください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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マラキ書3~4、テモテへの手紙 第二4
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