1 主は、モーセに仰せられた。「あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、【主】のところに上り、遠く離れて伏し拝め。
2 モーセひとり【主】のもとに近づけ。他の者は近づいてはならない。民もモーセといっしょに上ってはならない。」
3 そこでモーセは来て、【主】のことばと、定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えて言った。「【主】の仰せられたことは、みな行います。」
ここまでの文脈を確認してみよう。(1)出エジプトを経験した民は、神の期待を背負った民、神から責務が与えられた民である。彼らは、「わたしの宝、祭司の王国、聖なる国民」(出19 章)である。(2)その使命を果たすために必要なのがモーセの律法である。基本条項(出20 章の十戒)とそれに付加された諸条項(出21 〜 23 章)が啓示された。次のステップは、それらの条項にイスラエルの民が同意するかどうかである。もし同意すれば、彼らは神との契約関係に入ることになる。これが、シナイ契約の締結である。
山に上るのは、モーセ、アロンとその息子たち(ナダブとアビフ)、そして、イスラエルの長老70 人である。彼らの立ち位置を確認しておこう。【主】のもとに立つのはモーセだけである(モーセは仲介者)。中腹に立つのは、アロン、ナダブ、アビフ、イスラエルの長老70 人である。山麓では、民が待機している。
「モーセは来て、【主】のことばと、定めをことごとく民に告げた」。山に上る前に、民の意志を確認しておく必要がある。「【主】のすべてのことば」とは、20 章の内容である。「定めをことごとく民に告げた」とは、21 〜 23 章の内容である。モーセは、これらの条項を説明するために、相当な時間を費やしたはずである。
「すると、民はみな声を一つにして答えて言った。『【主】の仰せられたことは、みな行います』」。イスラエルの民は、神と契約関係に入り、モーセの律法の下で生きることを誓った。しかし、民の理解は浅く、その言葉は余りにも軽い。一番の問題は、彼らが神の聖さの基準を理解していないことである。モーセの律法が要求する霊性の高さを理解していないので、イスラエルの民は、律法の文字面だけにこだわるようになる。後の時代に現れるパリサイ主義の芽は、この時点ですでに存在していたと言える。メシアとして来られたイエスは、パリサイ的ユダヤ教の律法解釈を否定し、メシアによる律法の解釈を提供された。それが山上の垂訓である。
イスラエルの民は、自分たちの弱さと限界を理解しないままで、契約の締結に進んだ。彼らの形式主義、律法主義は、私たちの問題でもある。神は、私たちの内面をご覧になる。自分の内に真実な信仰と愛の実質が育っているかどうか、吟味してみよう。「ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか」(1コリ5:8 新改訳2017)
きょうの祈り
イスラエルの神よ。私の内側を清め、あらゆる形式主義、律法主義から私を解放してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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イザヤ書16~17、ローマ人への手紙7
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