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出エジプト記16:1 〜 3

1 ついで、イスラエル人の全会衆は、エリムから旅立ち、エジプトの地を出て、第二の月の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野に入った。

2 そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。

3 イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは【主】の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」

つぶやき(2)

つぶやきの内容

シンの荒野でイスラエルの民は、モーセとアロンに向かってつぶやいた。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは【主】の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです」
(1)彼らは、現状への不満を口にした。食べ物がないと言うが、「あなたがたはこの全集団を飢え死にさせようとしている」という言い方は、余りにもひどい。「飢え死にさせようとしている」というのは、間違いなく誇張こちょうである。パンはなくなったかもしれないが、彼らには、エジプトから連れて来た大量の家畜がいた。その肉は食用になったはずである。(2)彼らは、過去を美化した。つまり、奴隷生活の苦しさを忘れ、エジプトでの生活を美化したのである。「肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたとき」とあるが、奴隷にはそういう余裕も祝福もなかったはずである。(3)「エジプトで【主】の手にかかって死んでいたらよかったのに」とあるが、これは、エジプトに下った10 の災いのどれかによって死んでいたらよかったのに、という意味である。いくら不満があるとは言え、これは度を超えた言い方である。この時点で、【主】の怒りが彼らに対して燃え上がってもおかしくはないのだが、【主】は忍耐深く、恵み深いお方である。

神への反抗

(1)信仰とは、今に感謝し、将来に希望を持つことである。彼らは、エジプトに下った10 の災害から守られた。なぜそのことについて感謝しないのか。彼らは、紅海を渡ることができた。また、甘くなったマラの水を飲むこともできた。さらに、エリムというオアシスにまで導かれた。なぜこれらのことについて感謝しないのか。もし【主】が彼らを殺すつもりなら、とうの昔に彼らは滅びていたはずである。(2)モーセとアロンへの反抗は、神への反抗であり、聖霊を痛ませる罪である(イザ63:10)。(3)彼らのつぶやきは、ここまで彼らを守り導かれた神の性質への不信である。ここに記録されているイスラエルの民の大罪は、実は、私たちの罪でもある。私たちも、イスラエルの民と同じような罪を犯すことがある。リバイバルは、「私」から始まる必要があるということを覚えよう。「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」(詩51:10)

きょうの祈り

天の父よ。誰かでなく、私自身が造り変えられる必要があります。リバイバルは私から始まる必要があります。どうか私を新しくしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

士師記7~8、ルカの福音書11