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出エジプト記15:27

27 こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。そこで、彼らはその水のほとりに宿営した。

荒野の中のオアシス

マラからエリムへ

イスラエルの民はマラからエリムに移動し、そこで休息の時を味わった。「こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。そこで、彼らはその水のほとりに宿営した」。私たちの人生にも、荒野があり、オアシスがある。
(1)エリムとは、「なつめやし」という意味である。なつめやしがある所には、水がある。(2)そこは砂漠のオアシス、完璧かんぺきな休息の場である。そこには、12の泉と70 本のなつめやしの木があった。12 も70 も完全数である。(3)イスラエルの民は、その水のほとりに宿営した。このオアシスが民にどれほどの安息を与えたかは、荒野の旅を経験した者でないと分からないだろう。

私たちへの教訓

この箇所の適用について考えてみよう。(1)マラからエリムという順番が大切である。苦い水があったマラは、【主】の訓練の場所であり、オアシスの町エリムは、【主】の祝福の場所である。(2)ヘブル12:1 〜13 には、父なる神からの訓練と祝福が記されている。特に注目すべき箇所は、次のものである。「すべてのらしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(11節)。(3)ルツ1:20 では、夫と2 人の息子を亡くしてベツレヘムに帰還したナオミは、近所の人たちにこう言っている。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから」。ナオミは「私の喜び」という意味だが、マラは「苦い」という意味である。ナオミの人生にも、「マラの体験」があったのである。しかし彼女にも、「エリムの体験」が訪れる。ルツ4:13 〜17 がそれである。嫁のルツがボアズと結婚し、赤子を産む。その子がオベデである(しもべという意味)。オベデは、ダビデの祖父に当たる人物である。ナオミは、オベデの誕生によって大いに慰められた。
荒野の旅では、マラもエリムも通過する。私たちの人生もそれと同じで、苦難もあれば、祝福もある。苦しみの日には、つぶやくのではなく、希望を確認しよう。祝福の日には、傲慢ごうまんになるのではなく謙遜けんそんを学ぼう。

きょうの祈り

天の父なる神さま。マラにいるときも、エリムにいるときも、私はあなたの御名をほめたたえます。あなたとともに歩む特権を感謝します。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

士師記3~4、詩篇31 ~ 32