サポートする

出エジプト記15:25 〜 26

25 モーセは【主】に叫んだ。すると、【主】は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。

26 そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、【主】の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは【主】、あなたをいやす者である。」

【主】からの訓練

おきてと定め

【主】は、自由の民となった者たちを訓練される。荒野で水が見つからなかったことや、マラの水が苦かったことなどは、すべて訓練である。私たちも、【主】からの訓練をいやがってはならない。
「その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた」(25 節b)。「おきてと定めを授け」とあるが、これは、モーセの律法のような体系化されたものではない。次の26 節に出て来る【主】の命令とそれに伴う約束のことである。
命令とは、【主】の声に聞き従うこと、【主】が正しいと見られることを行うこと、その命令に耳を傾けること、そのおきてをことごとく守ること、などである。
約束とは、エジプトに下したような病気を下さないということである。「わたしは【主】、あなたをいやす者である」は、ヘブル語で「ヤハウェ・ロフェイハ」である。これは、出エジプト記に出て来る【主】の御名の1 つである。イスラエルが【主】に従順であるなら、彼らは祝福を受ける。マラの水が甘い水になったように、民の病も癒されるのである。

私たちへの適用

神は今も、自由の民を作ろうとしておられる。神は、ご自身を礼拝する民、また、ご自身の計画を実行する民を作ろうとしておられる。そのことを背景に、この箇所で語られている「おきてと定め」の意味について考えてみよう。これは、イスラエルの民に与えられたものであって、新約時代のクリスチャンに与えられたものではない。約束の地で【主】からの祝福に与るためには、従順さが必要である。従順であれば祝福を受けるというのが、旧約聖書の原則である。しかし、新約聖書の原則は、それとは異なる。新約時代に入ると、旧約時代とは正反対の教えが語られるようになる。つまり、神に従順であればあるほど、また、敬虔けいけんな生活を送れば送るほど、この世(神の敵)からの迫害が激しくなるというのである。以下の3 つの箇所を確認してみよう。イエスのことば(ヨハ16:33)。パウロの祈り(2 コリ12:9)。教会時代の原則(2 テモ3:12)。
「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」(2 テモ3:12)。新約時代のクリスチャンに与えられている慰めは、「患難の中での勝利の保証」である。私たちには、試練の中での喜びと勝利が約束されている。それゆえ、絶望することはあり得ない。

きょうの祈り

全知全能の神よ。私に与えられている守りと勝利の約束を信じます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

年間聖書通読

士師記1~2、ルカの福音書10