1 その後、モーセとアロンはパロのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、【主】がこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ。』」
2 パロは答えた。「【主】とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は【主】を知らない。イスラエルを行かせはしない。」
3 すると彼らは言った。「ヘブル人の神が私たちにお会いくださったのです。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、【主】にいけにえをささげさせてください。でないと、主は疫病か剣で、私たちを打たれるからです。」
4 エジプトの王は彼らに言った。「モーセとアロン。おまえたちは、なぜ民に仕事をやめさせようとするのか。おまえたちの苦役に戻れ。」
5 パロはまた言った。「見よ。今や彼らはこの地の人々よりも多くなっている。そしておまえたちは彼らの苦役を休ませようとしているのだ。」
モーセとアロンはパロのところに行き、「イスラエルの神、【主】がこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ』」と言った。(1)パロにとっては、イスラエルの神=奴隷の神であり、【主】(ヤハウェ)=無名の神である。その神が、「わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ」と言うのである。これは最低限の要求だが、パロにとっては無礼な要求である。(2)神がイスラエルの民を救出する目的は、神を礼拝する民を作るためである。礼拝は、祭り(祝い)である。「祭りをする」という動詞は、「巡礼祭を祝う」という意味にもなる。英語では、「feast」(フィースト、祝いの食事)、あるいは、「festival」(フェスティバル、祝祭)と訳される。(3)パロの反応は、「【主】とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は【主】を知らない。イスラエルを行かせはしない」というものであった。ここでは、「世界観の対立」が起こっている。それは、出エジプト記のテーマでもある。エジプトの世界観では、およそ80 ある偶像の頂点に君臨するのがパロである。
モーセとアロンは、「ヘブル人の神が私たちにお会いくださったのです。どうか今、私たちに荒野へ三日の道のりの旅をさせ、私たちの神、【主】にいけにえをささげさせてください。でないと、主は疫病か剣で、私たちを打たれるからです」と言った。(1)「ヘブル人の神」と言い換えたのは、その方がパロに理解してもらえるだろうと考えたからだろう。(2)また彼らは、自分たちから会いに行ったのではなく、神の方から会いに来てくださったと告げている。(3)願いが聞かれないなら、自分たちは殺されるだろうとも言っている(これは、彼らが考え出した言葉である)。これは、自分たちが死ねば、パロの財産(奴隷)がなくなるという警告なのだろう。(4)パロは、「モーセとアロン。おまえたちは、なぜ民に仕事をやめさせようとするのか。おまえたちの苦役に戻れ」と言った。イスラエルの民にとって、これは予想外の展開であった。しかし、神はモーセに対して、パロは最後までイスラエルの民を解放しないだろうと予告しておられた。
物事が思い通りに運ばない時、私たちの信仰が試されている。自分ならどう反応するか、黙想してみよう。神の思いと人の思いとは、遠くかけ離れていることを思い出そう。
きょうの祈り
天の父なる神さま。試練の時こそ、あなたの前で祝いごと(礼拝)を行わせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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