21 【 主】はモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行ったら、わたしがあなたの手に授けた不思議を、ことごとく心に留め、それをパロの前で行え。しかし、わたしは彼の心をかたくなにする。彼は民を去らせないであろう。
22 そのとき、あなたはパロに言わなければならない。【主】はこう仰せられる。『イスラエルはわたしの子、わたしの初子である。
23 そこでわたしはあなたに言う。わたしの子を行かせて、わたしに仕えさせよ。もし、あなたが拒んで彼を行かせないなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの初子を殺す。』」
出エジプト4:21 で、神はモーセにこのように語られた。「エジプトに帰って行ったら、わたしがあなたの手に授けた不思議を、ことごとく心に留め、それをパロの前で行え。しかし、わたしは彼の心をかたくなにする。彼は民を去らせないであろう」。ここで、「パロの心をかたくなにするのは神か」という疑問が湧いて来る。もしパロの心をかたくなにするのが神なら、パロに責任はないということになる。神に抵抗出来る者などいないからである。この問題を、どう考えたら良いのだろうか。
これは、神の主権と人間の自由意志の関係を基に論じるべきテーマである。新約聖書から回答を引き出してみよう。ヒントは、ローマ9:14 ~18 にある。特に18 節が重要である。「こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです」
(1)人の責任:人は、神によって心がかたくなにされるから滅びるのではない。人は、生まれた時点ですでに心がかたくなになっている。それは、アダムの子孫として、罪の性質を宿して生まれて来るからである。人は、自らの意志で自分の心をかたくなにするので、滅びるのである。
(2)神の主権:心のかたくなさが砕かれ、悔い改めに導かれるのは、神の選びによってその人に恵みが注がれるからである。従って、誰が救われるかは、すべて神の御心にかかっている。
(3)そんなことは受け入れられないという人のために、パウロは次のようなことばを用意している。「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか』と言えるでしょうか」(ロマ9:20)。
(4)神の主権と人間の自由意志の問題は、バランスをもって理解する必要がある。パロは自らその心をかたくなにしたのである。それゆえ神は、そのかたくなさを放置されたのである。パウロのこの言葉を心に留めよう。「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」(ロマ2:4)。神が悔い改めの心を与えてくださるように祈ろう。
きょうの祈り
天の父なる神さま。あなたは主権者であり、ご自身の計画を必ず成就されるお方です。と同時に、人間には自由意志が与えられています。神の主権と人間の自由意志をバランスよく理解することができますように、私を助けてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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出エジプト記33 ~ 34、ヨハネの福音書14
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